9−レイイチ



 

 危うい。その3文字がそのときの藤縞ほど嵌る人間もいないだろう。目には深い絶望を抱きながら、それでも笑うのをやめようとしない藤縞は、見ている方が辛くなるほど痛々しかった。

 ナナと彼の兄との、異常でありながらそれでも憧憬せずにはいられない優しい関係。その話をナナから聴くのが目下の俺の楽しみになったのは最近で、今日でナナを呼び出したのは2度目だった。ナナから次兄との話を聴く度に、まるで自分自身すら優しくなれるような気がした。ナナは次兄がいちばん大事で、次兄のすることなら何でも好きだと言う。その話も、そして次兄とのことを話すナナの顔も、なにもかもが優しかった。

 だが、そんな優しいだけのふたりの姿は、藤縞にとっては凶器でしかなかった。

 盲目的に愛を欲し、それ故誰よりも己以外に優しい藤縞に、一方通行ではないふたりの関係は一体どれほどの衝撃を与えたのか。

 ――もしかしたら、ふたりを俺の従姉弟たちに重ねてはいないかと。

 笑いをおさめた藤縞が、未だふたりが消えた方向を見据えているのを見て、俺は堪らず口を開いた。

「藤縞、そろそろ寮戻るか?」

「……んー、今日は実家帰ります。」

「え?あ、もしかして親父さん帰ってきてんのか?」

「ううん。まあでもそのうち帰ってくるし、掃除でもしておこうかと思って」

 掃除は、皓さんが日本に戻る前の日にすればいいだろう?そう言おうとして言えなかった。

 藤縞の表情がそれを言うことを俺に許さなかった。

「じゃあね柏木先輩。」

「……ああ。」

 夕方の人ごみに紛れていく藤縞の背中は、いつもの強烈な存在感など微塵も感じられないほど希薄な気がした。

 時々、本当に時々藤縞は‘ああ’なることがあった。それは俺にも、そして多分清嶺すら分からない藤縞の頭の中にあることだけが原因のようで、別にそうなる前兆や理由があるわけでは決してなかった。フッと、静かにその気配を消す。それは普段が普段だけに俺にはひどい違和感があった。

 それをそれとなく清嶺に聞いてみたことがある。すると、

「何と相関があんのかはわかんねーよ。ただ・・・入学当時によくしてた顔だ」

と清嶺は言った。

そして、見えない境界線が引かれた感じがする、とも。

それを聞いて、ああ、と納得したものだ。確かに、‘ああ’なるときの藤縞は、己の周りに不可視の包囲網を築いて、柔らかに、しかしきっぱりと周りを拒絶していた。それは人に限ってのことではなく、時には時間や空気さえ、藤縞は拒んでいるように見えるときがあった。

 だが、今日の藤縞は、それより酷い気がした。

 それまではただの「無」だったものに、深く暗い絶望が宿ってしまったような。

 ――いつもは色素の薄い藤縞の瞳が、なぜか漆黒の色にしか見えなかった。

 

 寮に戻って藤縞のことを清嶺に伝えると、案の定自分も行くと言い出した。特段止めるつもりもなかった俺は清嶺を黙って送り出し、念のため藤縞に電話を入れた。

 だが、20回ほどコール音を鳴らしても、藤縞は電話には出なかった。

「出ないのか?」

「――ああ。まあ藤縞のことだから単に気づいてないだけだと思うけどな。」

「微塵もそう思っちゃいないように聞こえるが?」

 皮肉気な笑みを向ける奥野に負けじと似たような笑みを返してやると、奥野は少し声を立てて笑った。そんな奥野に俺も素直に笑みが浮かび、そうかもな、と言って肩をすくめてみせた。

「お前の従弟、行かせてよかったのか?」

「藤縞にとっちゃあNoだろうな。携帯に気づいてないのか、それとも故意に出ないのかは不明だけど、どっちにしろ音を――外界を、遮断してんだろ。」

「そうか…。で、従弟殿は遮断機を上げることができそうか?」

その問いに、俺は「さぁ」としか答えられなかった。

清嶺の心の空虚を俺はもう10年近く見続けてきた。その奥にある暗い絶望も。


 ――そしてその絶望は、藤縞にも存在する。あの、天真爛漫としか表現できないような人間にも。


だからだろうか。同じような絶望を抱えた二人でありながら、その暗さが際立つのは藤縞の方だった。

誰にでも優しく、そして誰からも愛される。そんな、皆の理想のような存在であるということは、当然並大抵のことじゃない。俺も似たようなところがあることは否定できないが、少なくとも俺は本気で周りを愛しているわけではないし、本気で皆に優しくしているわけでもない。俺のそれは、多分誰よりも利己的だ。

しかし、藤縞は違う。一言で言うなら、極端に利他的なのが藤縞だった。

利他的、ということは、他人に優しいということだけを意味しない。

 

――藤縞自身が、藤縞にとって他の誰より大事ではないということなのだから。

 





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