10−キヨミネ



 

 チビの実家の玄関は無用心にも開いていた。夜の8時に、しかも普段は無人の家に訪れる人間など誰もいない。まずはそのことを怒ってやろうと思いながらチビがいるだろう居間に向かったが、そこには誰もいなかった。2階か?と思って廊下に出たところで、階段奥の和室の方から微かな物音がした。今まで一度も足を踏み入れたことのないその和室は、チビの祖母が暮らしていた部屋だと聞いていた。あのババコンのことだ、遺影にでも頬ずりしてるかもな、と冗談のように思いながらガラリと入り口の襖を開けると、案の定チビはそこにいた。

 ただ、その手に抱えているのは遺影ではなく、夜目にも分かる真っ白な小さな箱だった。上等そうな絹に包まれた。 
 大きさがその2倍あれば、それは「ある物」でしかあり得なかった。だから、その小箱も「ある物」であることは疑いようがなかった。

「なにしてんだ。」

 知らず声が尖ったものになる。

 しかし、チビは俺の声に反応することはなく、下手すれば俺が今ここにいることすら気づいていないのかもしれなかった。そう思ってしまえるほどチビの目は何も映してはいなかった。

 ――小さな骨壷を抱えて、ただ虚空を見つめていた。

 思わず、頬を張った。

 パン、という乾いた音だけが響いて、また部屋に静寂が戻る。だがさすがにチビは我に返ったようで、目の前の俺にひどく驚いた顔をした。

「き、清嶺?なんでココにいんの?」

「そりゃ俺の台詞だ。親父も帰ってきてねーのになんで実家なんか戻ってきた。」

「え?あーーえーーほら、ばーちゃんに会いたくなってさ。」

「それで灰の入った骨壷抱いてぼーっとしてたってか?」

「あ、そ、そう。なんとなく一緒にいるような気になるじゃん。」

「んなことしてもなぁ、死んだ人間は生き返らねーんだよ。」

 そう言って胸倉を掴んでやれば、チビが怒ることは容易に想像できた。この後チビの右ストレートが飛んできて、それを軽くいなしてこの場は終わるはずだった。なのにチビは俺に右ストレートも、罵詈雑言も飛ばすことはなかった。

 恐ろしく予想外なことに、俺を見て小さく笑ってみせた。


「でも、誰より俺の傍にいてくれたから」


 ――そのときの感情を何と呼べばいいのか俺は知らない。とにかく今まで誰にも抱いたことのない感情の奔流が俺を襲って、頭と体の両方がコントロールできなかった。
 だってそうだろう?初めて抱く感情の抑え方なんて俺は知らない。
 
 この感情の名前なら尚更。

 



 だから、気づけば、チビの首を絞めていた。

 胸倉を掴んでいた両手の一つを外し、片手だけでその首を絞めた。チビの細い首は片手でも十分で、夜の帳にその白さを際立たせ、まるで現実味がなかった。俺が絞めているのがまるで生身の人間ではないと錯覚させてしまうくらいには。

ドク、ドク、とうるさく聞こえる音は、何故か俺の左のこめかみから響いた。

そうだ、俺は生きている。


――こいつも。


「げほっ…!」

 チビが咳き込む音が静寂を支配する。まるで水に溺れていたかのようにひたすら息を吸い込むチビの顔は、血が通わなくなったせいかほとんど真っ白と言ってよく、ただ、首に残る俺の指の痕だけが赤く色を持っていた。

「…ハハ、アハハハハ!!」

 突然、笑い声が響いた。潰されそうになった喉を震わせて、それでも乾いた笑いをチビはやめようとしなかった。笑いすぎて、ただでさえ傷ついていた喉から血が溢れてくるまで、チビは笑い続けた。ケホケホと咳き込んで畳の上に血を吐き出したチビを俺はただ黙って見下ろしていた。

 とんでもないことをやらかしたという認識はあるのに、俺の頭は恐ろしく冷静だった。チビが吐いた血が別に命に関わるものではないことが分かるくらいには。そしてその血が、俺の手によって流されたものであるということも。

「――――――やるならちゃんと殺せよ。」

「……ヤダね。死ぬなら一人で死ね。」

「殺そうとした人間が何言ってんだか。」

「未遂だろ?」

 狂っていると思われてもおかしくはない会話。それに多分チビも気づいていたはずだった。

「清嶺なら殺してくれるかと思ったのに。」

「…なんで。」

「だって、清嶺やさしいだろ?」

「あいにくだな。」

「ハハ。そっか。俺亜矢子さんじゃないしな。」

「……亜矢子なら俺が死んでも首なんか絞めたりするか。」

 

――爆発的な笑い声。

 それは笑うことが何よりも辛いと知りながら、それでも笑うしかないとでもいうようなそんな笑い声だった。涙さえ滲ませながら笑うチビの顔は当然のように笑ってはおらず、ただ口の形が笑みを形どっているだけ。

 その奥に、チビの絶望が垣間見えた気がした。




 

「――帰れよ清嶺。まだ門限間に合うだろ。」

 水道水を静かに飲んでからチビはそう言った。視線はシンクに向けたままで、台所の椅子に腰掛けている俺に顔を向けることはなかった。

笑い始めたのが突然なら、笑い終えるのも突然で、いきなりピタリと笑うのを止めたチビはゆっくり立ち上がった。そして首に手を当て、少し顔を顰めると、和室を出て台所に向かった。水が流れる音が聞こえてから、俺も部屋を出た。

「めんどくせぇ。」

「そ。なら居間の隣の和室で寝ろ。押入れに布団あるから勝手に出せ。」

 そう言って、チビは手に持っていたコップをシンクの中に置いた。カタン、という硬質な音は、毎日聞き慣れているはずなのにどこまでも日常に溶け込まない音に思えた。チビが台所から出ようと踵を返したところで、俺はチビの左腕をガシリと掴んだ。

「お前も和室で寝んだろ。」

「俺は2階で寝る。風呂も適当に入れ。」

「なら俺も2階で寝る。」

「殺されそうになった男と一緒に寝る趣味はねーよ。」

「へぇ。俺は殺しそうになったヤツとなら一緒に寝たいけど。」

「一緒に寝てどうする?殺しもしないのに。」

「そうだな…地獄に行きそこなった、ってわけか俺は。じゃあ天国にでも行くか?」

「…天国?」

「そ。俺とセックスすりゃあもれなく行ける。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「どうだ?」

 こういう話にチビが滅法弱いのを俺はよく知っている。いつもなら赤鬼のように顔を真っ赤にして怒り狂うはずだ。その様を見るのがあまりに楽しくて、付き合いが2年になった今でもやめられない。

 さあどうする?と心の中で小さく笑いながら、俺はチビの反応の変化をゆっくり窺おうと思った。

「いーよ。」

「・・・・・・・・・・は?」

「やろうぜ、セックス。」


 ――それを聞いたときの俺は、多分後にも先にもこれ一度というくらい間抜けな顔をしていたに違いなかった。


「で、どっちでやんの?俺の部屋?それとも和室か?」


 その顔にほんの少しの笑みすら浮かんでいないのが、今日ほど怖いと感じたことはないと思った。

 





HOME  BACK  TOP  NEXT

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送