11−ナナ



 

 それを見たのは偶然だった。家を出るときハチに強引に着せられた厚手のコートの襟に半分顔を埋めるようにしていつもの港に歩いて行こうとしていると、港と道路を分けるガードレールの上にフジらしき人影があった。

どうして確信が持てなかったかといえば、その空気のせいだった。フジが持っていたあの極彩色のような空気が今はどこにも存在せず、代わりにフジをとりまくのはただひたすら希薄な色。それはフジの容貌にあまりに溶け込みすぎていて、かえってひどい違和感がした。

「・・・フジ、どうしたの」

 背後から話しかけても、フジは何の反応も返さなかった。そのことに背筋がゾクリとする。

 フジの空気は、死ぬ直前の母親によく似ていた。

「フジ!」

「ぅわっ……ナナ?」

 私の方を振り向いたフジの顔は相変わらず綺麗だと思った。なのに、どうしてその目は色を失ってしまっているのか。

「なんでそんな目してるの」

「へ?」

「……ホサと何かあった?」

 途端その目に色が宿ったけれど、そのことに私は喜ぶことなどできなかった。

 仄暗いとしかいいようのない色。

 そんな絶望を、どうしてこんな小さい子供がその身に隠しておけるのかと私は不思議で仕方なかった。誰からも好かれ、誰からも愛されるようなこの存在が、どうしてその目にそんな色を宿しておけるんだろうと。

「…何もない」

「…………。」

 私は、よく聞き上手だと言われた。もしくは、何故か誰にも言えないことでも話せてしまう、とも。それは私が小さい頃から言われていることで、そのことに私自身何の感慨も持ったことはなかった。

 だが、今なら、そう言った彼らに「違う」と自信を持って言えるだろう。

 私は、目の前のこんな小さな存在の痛みを、分かってあげることができないのだから。

 

 ――――プルルルルルルルル。

 

 いつもなら驚かないはずの携帯の着信音についビクリと体を震わせたのも、そんなことを思っていたからかもしれない。コートのポケットからその音の発信源を取り出すと、液晶にはハチの名前があった。

「…もしもし」

『ナナ?今どこ?なんでちょっと出かけるだけって言ってたのに、1時間経っても帰ってこねーの?』

「ごめん。いつも来てる港にいる」

『は!?その体で!?このクソ寒いのに!?』

「うん」

『うん、じゃねーよ!すぐウチ戻って来い!』

「でも」

『でも、じゃない!1時間以内に戻ってこなかったら1週間外出禁止にするからな!わかった!?』

 そう怒鳴られて電話は切れてしまった。あの声だと相当怒っているに違いない。私がコンビニに行くのさえ最近では嫌がるハチにとって、海港に行くのはもはや戦闘地域に行くのとそう変わらないらしかった。

 だが、このまま帰るには、隣にいるフジをとりまく全てが危うすぎた。

 フジを一人で残すぐらいなら、と私は一度ポケットに仕舞った携帯を取り出す。しばらく逡巡してから、私からかけたことも、そしてかかってきたこともほとんどない相手に電話をかけた。

 

 

「――頼みごとは、コレ?」

「コレじゃない。フジだ。藤縞宝」

 冬の日は短い。すでに日が沈もうとしてる時間の港に現れた長兄は、あまりに海に似合わない格好をしていた。

フジはと言えば、いきなり自分の名前が呼ばれたことに驚いたのか、その大きな目をぱちくりさせながら私の方を凝視している。本当に可愛いな、と思いながら、今はそんなことを思っている暇はなかったと長兄に顔を向けた。

「今から20分以内に家に戻らないと私はハチに1週間外出禁止にされる。この分だと絶対にそうされそうだけど、なんとかこれから全速力で帰れば半分にはしてくれると思う。でも、フジをここに一人残していくわけにはいかないから、イチ兄、お願い」

 一気にそう言って、私はその場から猛ダッシュで離れて駅に向かった。このまま行くと確実に4日は家から出られない。ハチの場合、冗談じゃなく本気で私を一歩も外に出してはくれない。授業があろうがなかろうが本気でやるのだ。

 それに、多分私では無理なのだ。

 今でも憶えている。私とハチを眩しそうに見ていたフジの目。あれは、愛に飢えて、そして飢えても飢えても手に入れることができなかった目だった。

 そんなフジにとって、もしかしたら私は誰よりも見ていたくて、そして何よりも見ていたくはない存在なのかもしれなかった。

 

 長兄にフジをまかせたことが良かったのか悪かったのか私には分からない。

 けれど、あのまま一人にしておくよりは絶対に良いはずだった。

 

 誰をも同じように愛し、その実誰も愛していないような長兄でも。

 





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