7―キヨミネ



  

「ホサ?」

 街中の本屋で立ち読みをしていた俺の肩をトントンと叩く手があった。誰だ?と思って振り向けば、2週間前に会ったとんでもない女がそこにいた。その女――市ノ瀬ナナ以外には呼ばれたことのない俺の呼び名もそのままで、相変わらずいささか変わっている人間だと思う。ただ別に気に障るわけではないことが不思議だった。

「今日はフジは一緒じゃないんだ。」

「ああ。」

「そうか。それじゃ。」

 そう言って踵を返そうとした市ノ瀬の手首を、俺は何を思ったかひしと掴んでしまった。そんな俺に驚いたように振り返る市ノ瀬に、むしろ俺の方が自分の行動に驚きたいくらいだった。

「・・・何か、話をしたいの?」

「―――――。」

 こういう切り返しができる女に俺は会ったことがない。俺は自分のツラが人より整っていることを知っている。このツラのせいで、大抵の女が俺に向ける視線は自然と媚を含んだものになることも。

 だが、この女の視線はどうだ。

 ただ単に俺を見つめているだけの目だ。

「・・・時間あるか。」

「1時間ほどなら。」

 そう答えることが予想できた俺は、掴んでいた手を離して本屋の隣の喫茶店に入った。別にチビと違って人好きのする顔はしていないというのに、市ノ瀬が俺の申し出を断らないことが俺にはなぜか確信のように思えた。

 席につきコーヒーを頼んでから、ポケットから煙草を取り出す。そして火をつけようとしたところで市ノ瀬にひょいと煙草を取り上げられた。

「何すんだ。」

「ごめんなさい。妊娠してるからこの1時間だけ我慢してくれない?」

 衝撃的な台詞をまるで今日の夕飯の献立を言うくらいの気軽さで話された。そして取り上げた煙草を俺に手渡すと、少し口の端をあげた。それはたぶん謝罪の笑みだったんだろうが、笑みにしては悲しみを溶かしたような笑みだった。

 最初に会ったときも、市ノ瀬はいつも悲しみと隣り合わせのように見えた。赤の他人にいきなり話しかけられても、自然とそれを受け容れられるということはそう簡単なことじゃない。淡々と己の家族構成を話してしまうことも、知らない人間に夕食を食べさせようとするところも、何もかもが危うげだった。

 あの翌日、玲一が俺に話した市ノ瀬とその兄との奇妙な関係。あまり他人に興味を持たない玲一があれほど興味を惹かれていたということは、それだけ玲一が市ノ瀬を気に入り、そして市ノ瀬と兄の関係が尋常でないということなのだろう。亜矢子と、そしてチビだけが全てといっていい俺にとってはそう気になるものでもなかったが、市ノ瀬の言った台詞だけは忘れることができなかった。

 苦しむことになる――この女はそう言った。


「市ノ瀬、ふたり愛しているって言ってなかったか。」

「ええ。」

「なら何で妊娠なんかしてる。」

「セックスしたからよ、一人の方と。」

 歯に衣着せないのは俺や玲一の特権かと思っていたが、そうではなかったらしい。だが、その台詞自体の衝撃よりも、もう一人の方はどうなんだという疑問の方が俺の中では容積を占めていた。すると、俺の表情からそんな俺の内心が分かったのか、市ノ瀬が口を開く。

「もう一人も愛してるよ。でもセックスはその人だけと決めているし、もう一人は私をそういう意味で愛してはいないもの」

「・・・ずいぶんとまた個性的な関係だな。」

「そう?私にはあなたの方がひどく危うげに見えるけれど。」

 そう言ってニコリともしない市ノ瀬の顔を俺は睨み付けるように見つめた。だがそれでも市ノ瀬は俺から視線を逸らさない。半ばその視線に負けるような形で俺は目を伏せ、そしてひとつ溜息をついた。

 俺が咄嗟に市ノ瀬の腕を掴んでしまった理由は、間違いなく「それ」に違いないからだ。

「苦しむことになる・・・って言ってたな。」

「ええ。貴方の目は、ふたりを愛することができるようには見えなかったから。」

「・・・ふたりを愛することができる目ってものがあんのか?」

「私の長兄がそう。何人もの人間を同時に、そして同じように愛することができる。愛に量っていうものがあるのなら、長兄のそれは無尽蔵よ。けれど、ホサはそうじゃない。ホサが自分以外の誰かに向けられる愛の量は極端に少ないように見える。ただその分、向ける誰かへの愛は限りなく深いものじゃないかと思う。それこそ自分以外の誰かを見ることすら許せないくらい。」

「――――――――。」

 背筋がザワリとした。その感触を言葉で表現するのなら、畏怖、という言葉がぴったりかもしれない。まるで自分の頭の中を直に触られたようなそんな感触に、俺自身まだ対応することができていない気がした。

 俺の愛し方――それは確かに市ノ瀬の言葉どおりだった。関心のある人間は世の中に二人だけ。命よりも大切な姉と、全てを独占していたいルームメイト。その二人に向けるそれは、確かに限りなく深いものに違いなかった。

「だから、きっとホサはいつか片方の手を離すことになるんじゃないかと思った。そのとき、ホサは心が引き千切られるような思いをするに違いないから、だからそう言った。」

「・・・離す?」

「ホサの方から離すか、ホサが離されるか。ホサほど深く一人の人を愛せるのなら、ホサに愛される人間は、自分以上にホサが愛している人間がいることに耐えられない・・・・・・ああ、お姉さんなら別かもしれないけれど。」

「亜矢子・・・?」

「そう。彼女が鍵じゃないかと思う。彼女以外のもうひとりをホサがこの上なく愛しているなら、離すのは彼女の手の方であることを私は願う。」

 そう言って初めて目の前にあるカフェオレを口にした市ノ瀬は、本当にそう願っているんだろう顔をしていた。それは俺にとっていいことなのか悪いことなのか分からない。俺はもちろん亜矢子の手を離す気はさらさらないし、チビの手だって同じことだ。

 ただ、離される、ことがあるとすれば、それはチビの方だろう。

 ――そう考えたところで、俺を襲った感情は紛れもなく恐怖だった。

 あの存在が自分の傍からいなくなる。それを想像しただけで吐ける気がした。そんな俺をさらに追い詰めるかのように、市ノ瀬は口を開いた。

「姉弟は家族である限り離れることはないでしょう?ホサの姉への愛が家族に向けるそれよりずば抜けて多いのなら、その絆はさらに強固なんだと思う。それをホサも自覚しているとしたら、もう一人がホサの手を離すことの方が確率としては相当高いだろうね。」

 そこで一旦言葉を切って、市ノ瀬は俺の目を射抜くように見つめてきた。

「――それがもしフジなら、確率はさらに上がる。フジは、愛ってものに、人一倍飢えてる目をしてるから。」

 そう言って市ノ瀬は席を立った。チャリンという小銭の音がして、それが市ノ瀬がテーブルにカフェオレの代金を置いた音だと気づくのに俺はかなりの時間を要した。

「ホサは愛することができる人間だよ。・・・だからこそ、私はお姉さんの手を離せることを願ってる。」

 そう言って俺の髪を優しく撫でる手も、俺に向けた微笑も、たったひとつ上の人間には到底思えなかった。

 
 市ノ瀬の言葉は、真摯としか言いようがなかった。

 




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