6―ハチ



 

 反吐が出る。

 腕に張りついた女の胸の感触と、キツい香水の匂い、そして舌足らずな喋り方。そのすべてに吐き気がする。

 やはり学部の飲み会なんかには出るもんじゃないと思う。たとえこの先先輩とうまくいかなくなろうが、今日限りで俺は二度と飲み会には参加しないと心に決めた。

 大体、どうして学部の飲み会のはずなのに、どこかの看護学生の女たちが混ざっているのか。その女の目線がすべて俺に集まっていることで、俺が今回体良くダシにされたのはすぐに分かる。

 こんな奴らが人間の心臓を扱えるのかと、俺は将来奴らの手にかかる患者が本気で気の毒だと思った。

 ――――プルルルルルルルル。

 と、そこで携帯が鳴り、俺はいいタイミングだとばかりにその女が巻きつけていた体を腕から外し、席を離れた。そして携帯を耳元に当てようとしたときに、女のせいで服に染み付いた匂いが香って俺はさらに不機嫌になりそうだった。

「…もしもし。」

だから、自然電話に出た声も冷たいものになる―――が。

『……ハチ?』

「ナナ!」

 相手がナナだと知るや否や、俺の不機嫌は地の果てまで吹っ飛んだ。

『ハチ、今昨日言ってた居酒屋さん?』

「そ。でもなんで?」

『ん、ちょっと話あって……あ、いた。』

「え?」

 ふと視線を前に上げれば、向こうから歩いてきたのは紛れもなく俺の最愛の妹だった。いつもと同じ、柔らかい笑みを顔にのせて静かに近寄ってくるナナに、俺は飽きることなく見蕩れる。アルカイックスマイル、そんな単語が本気でハマる笑みだと俺は思う。

 そして俺の目の前でさらに笑みを濃くするナナに、つい3日前にも会ったというのに、俺はまるで3年も会っていなかったかのようにナナをぎゅうと抱きしめた。

「……珍しい、香水つけてる?」

 途端、ナナにそう言われて、俺は斜め後ろで俺たちを見ているだろうさっきの女に本気で殺意が沸いた。

「違う。どっかのバカ女にしがみつかれてただけ。…やっぱナナはいいなあ、何もつけてないのにすごいいい匂いする。」

「フフ…ハチ、犬みたいだよ。お母さんのお乳の匂い嗅いでる子犬みたい。」

「180もある子犬っていうのは俺ぐらいだろうなあ。」

 

「――――おい、イチノセ。ラブシーンおっぱじめる前に紹介しろよー。」

 

 いつもは俺に話しかけることすらない気弱なはずの男が、酔いが入っているからなのか突然大声でそう叫んだときには、俺は視線で人が殺せるなら絶対に瞬殺にちがいない視線をそいつに向けた。その声を皮きりに周りの男も女もてんやわんやに騒ぎ出して、隣で飲んでたOLグループまで俺とナナの方に視線を向けてきた。そういえばOLの一人がやたら意味深な目線を送ってきてたなと数分前を思い出す。当然完全無視だったが。

 なんとか顔にいつもどおりの能面ツラを乗っけると、俺はナナに抱きついていた腕を外して奴らの方を振り向いた。男連中は皆おもしろそうな顔を向けていたが、女たちは微妙な表情、そして案の定、さっきの女は恨めしそうなツラでこっちを見ていた。

「イチノセー誰なんだよそのコ。」

「……誰でもいいでしょう?」

「えーーーそんなんで逃げるつもりかぁ??」

 ちっと俺は舌打ちをした。いつもなら俺のこの美貌の微笑みに大抵何も言えなくなっていたはずだというのに、どうも理性がきれた酔っ払いにはあまり効果がないらしい。

「妹です。」

「え!!そうなの!?」

 ナナの台詞にいち早く反応したのはやはりさっきのベタベタ女だった。あまりの分かりやすさに脳みその軽さと尻の軽さが窺える。そして女どもは、途端ナナを自分たちの隣の席にひっぱりこみ、さっきまでの仏頂面はどこへやら、やたら愛想良くナナに酒を勧め始めた。

「もうー、ちょっとびっくりしちゃったよイチノセくん。」

「……………………そう。」

 ナナが心配でとりあえず席に戻った俺にまるでひっつき虫のように張りついてくる女。悪いがお前の何倍もナナはいい乳してるし、そんなブヨブヨの二の腕もしてねぇ。足周りはお前の2分の1ぐらいしかねぇんじゃねぇか?長さは2倍だけどな。ああ脳内毒舌がとまらない。

「ねぇ、妹さん他のコたちと盛り上がってるし、少し抜けない?」

 ――バカか?

 と、今度は女どもだけでなく男たちの席にひきずりこまれそうになっていたナナに、俺は静かにブチ切れた。

「……あのさあ、ナナと俺ほんとの兄妹じゃないから、つーか従妹だし。んで俺の奥さんなわけ。ワリィけどその手離してくれません?」

 そう言ったのと、男の手をナナから引き千切るように離したのとは同時だった。その台詞がどれだけの衝撃力を持つかは当然計算の上だ。特に隣で固まったように俺の腕をまだ放さないこの女にも。

「つーことでナントカさん、俺から手離してくんない?」

 そう言ってニッコリ笑ってやると、女はパッと手を離した。ご丁寧に赤面までして。

「……イチノセ、それマジ?」

「そう、マジ。」

「……じゃあなんで妹なんて言ったわけ?えっと…ナナさんだっけ?」

 気安くナナの名前を呼ぶんじゃねぇと叫びたかったが、それではいつもとキャラが違いすぎると俺はなんとか堪えた。

「本当に兄弟のように育ちましたから。」

「えーーでもさっきイチノセ奥さんって言ってたじゃん?いつからそういう関係になったわけ?」

 どうして男ってのはこういう下世話な話が好きなんだと俺は頭痛がしそうだった。そう言えば・・と、俺は研究室の先輩に無理やり渡されたビデオに「おにいちゃんやめて!高校生の妹に俺は…。」とかいうふざけたタイトルのものがあったことを思い出した。そしてその先輩がやたらそれを勧めていたような気もする。当然中身は見てないが。

 しかしその時、「俺中学生だったナナやっちゃってんだけどなあ…」とタイトルを見た途端少し凹んだことまで思い出した。

「いつから…と言われてもよくわからないんですが。」

 こういうナナの真っ直ぐさを俺はどうしようもなく愛している。いや、俺はナナのすべてが愛しいから、嫌いなところなど一つもないが。ただ、こういうときにナナの真っ直ぐさは時に凶器にもなる。そのことに気づきながらも、その時の相手の反応をいつも楽しんできた俺は、今回も楽しむことに決めた。

「いや…だからさぁ、いつから二人は深い仲になったの?ってこと。」

 男の含み笑いなど気持ち悪いだけのものでしかない。それが隣の男と目を合わせながらともなると、すでに犯罪の領域だ。

「ああ、セックスのことですか?」

「おっと、きたきた。そうそう、セックスだよ!」

「私が13、ハチが14だったと思いますが。」

「………早いんだねー。」

 男どもの口元がひきつったのを見ておれは内心爆笑していた。もしかしたら、実際に俺の口は堪え切れない笑いで少し引きつっていたかもしれない。そりゃあここにいる男どもからすりゃ早いなんてもんじゃないだろう。下手すれば20でもまだ童貞なんてのも平気でいるのがウチの学部のとんでもなさだ。

「そうですか?長兄は確か12のときだったと記憶していますが。」

 あのクソ兄貴は生まれが3月だから、詳しく言うと脱童貞は中1の夏だが確かに12のときだ。まあ世間的には12は小6だから、こいつらにしてみりゃ有り得ねー話だろうな。

「……………………へぇ。」

「…ねえナナさん、そうなるきっかけってなんだったの?」

 女参戦。男どもよりは期待できそうだと思いながら、俺は今夜初めて酒を口にした。

「きっかけ、ですか?さあ、気づけば、という感じでしたけれど。」

「えーー気づいたら恋してた、ってこと?」

「いえ、気づいたら挿入されていたという意味です。」

「「「「………………………。」」」」

 ………ナナ、それはお兄ちゃんも少し恥ずかしいぞ。というかそれはむしろ俺の恥じゃないのか?

 そう思っていたら、案の定男どもが食いついてきた。

「お、おいイチノセ、そうだよ、お前13の女の子がそんなこと知ってるわけないじゃん!」

「さぁ?でも俺はナナしか見えてなかったし。それにずっと一緒に寝てましたから別に自然に。」

「…じゃあイチノセの初体験っていつよ。」

「ナナを抱いたのが最初ですよ。俺はナナ以外は抱けませんから。」

「え、なにそれ。」

「こういう顔してたせいで、小6の時とんでもない女に逆に襲われかけたときがあったんですよ。いきなり咥えられて。でもまったく勃ちませんでしたからね。」

 あの時の女はとんでもなかった。あの女がやたら赤い口紅をつけていたせいで、俺は今でも赤い口紅の女を見ると寒気がする。夕方学校から帰る俺をいきなり車の中に連れこんだかと思うと、突然ズボン下ろしてくわえやがった。あの頃はまだ身長も165なくて華奢な体だったせいか逃げることもできなかった。

 が、俺のそれがまったく役に立たないことを知るやいなや今度はキスしようとしてきた女に、俺はまったく手加減なしで顔面に拳をくらわせてやっとのことで逃げ果せたのだ。

「へーなんかラブラブなんだなお前とナナさん。うらやましくなってきちゃったよ。」

 たまにはいい事言うじゃないかと俺は少し機嫌が良くなった。あまり俺もナナも外に出るのが好きではなかったので、俺たちのラブラブな恋人ぶりを他人に見られたことはほとんど皆無だ。まあ見せたくなかったというのも多分にあるが。だからこういう言葉はあまり言われ慣れていないのだ。

 と、俺はそこでナナが話があると言っていたことを思い出した。

「そうだナナ、話あるって言ってなかったか?」

「あ、そうだ。…耳貸して?」

「ん、ほら。」

 

―――耳に届いた言葉に、俺は冗談じゃなく飛び上がった。

 

「な、なんだよイチノセ。ナナさんに何言われたんだ?」

 そんな男の声など、俺には1デシベルも聞こえてはいなかった。

「…………………ほんと、ナナ?」

「うん。昨日先生に言われた。」

「…………………………………帰るぞ、ナナ。こんなとこいちゃだめだ。つーことで俺たち帰ります。」

「は?お、おい?」

「あ、これ俺の分の会費です。あと、俺この先飲み会には一切出るつもりないので、そこんとこよろしくお願いします。」

「え?ちょ、ちょっとイチノセ?」

 それに返事を返すことなく、俺はほとんどナナを抱きかかえるようにして居酒屋から出た。そして出てすぐの道路でタクシーを止め、俺の家の住所を告げた。

 

 家に着いて、俺はナナをこれでもかと抱きしめた。そして顔中にキスをして、手や首や頭にもキスの雨を降らせた。

「ナナ、一緒に暮らそ?…今度は絶対イヤとは言わせねーよ?」

「………分かってるよ。」

 そう言って小さく笑うナナがあまりに愛しくて、俺はナナの両脇に手を入れて、小さい子にするように抱き上げてぐるぐる回った。そんな俺にナナはやさしく笑顔を浮かべて、そして「愛してるよ、ハチ。」と言ってくれた。

 

 

―――ハチのこども、できた。

 

 

 それが、耳元でナナが囁いた言葉だった。

 




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