5―イチ


 

「どうしてキスなんてした?」

 まるで、俺にそう聞かれることが分かっていたかのように、ナナは俺の目を真っ直ぐ見て口を開いた。

「…出口にいた女の人が、私のことを疑わしそうに見ていたから。結局イチ兄のせいで無駄になったけど。」

「……慣れてるな、ナナ。なあ、ハチ以外で男と寝たことある?正直に答えろよ?」

「ない。一度も」

 その答えに――兄以外と寝たことがないという妹の答えに、心のどこかで確かに安堵している俺がいる。

  そして、安心すると同時に、わけのわからない感情がこみ上げくるのもそう珍しいことじゃなかった。




 ナナがうちに来たのは、俺が12のときだ。

 とにかく痩せていた子供だったのを覚えている。父親の手に結ばれていたナナの手は小さくて、伸ばしている腕も折れそうに細かった。

 俺は中学にあがったばかりだったが、俺が10のときに母親が死んでから、父親は父親として全く役立たずで、そのせいで俺は年齢以上にしっかりせざるを得なかった。まだ母親が死ぬ前、頭はキレるがその他一切ができない親父をどうして選んだのか聞いたことがある。すると、母親は「だって可愛いじゃない」とケラケラ笑いながら答えた。俺はそのときから女には無条件で尊敬の念を抱くようになった気がする。

 とにもかくにも、そんな経緯があったものだから、ナナの面倒は当然父親ではなく俺が見ることになった。父親は初めての女の子供に世話をやきたくてうずうずしていたようだったが、いざまかせてみればすることなすこととんでもないことばかり。父親が風呂にナナと一緒に入っていたときに、「ぎゃーーーーー!!」という闇をつんざく父親の叫び声が聞こえて、驚いて風呂場に行ってみれ額から血を流しているナナがいた。どうやら頭を洗ってやろうとして、間違って床のタイルに落としたらしい。結局大事には至らなかったが、俺はその日から父親にナナを一時でもまかせることはしなくなった。それなら2つ下の弟に任せる方が父親の数千倍はナナのためだと、ぶうぶう文句を言う親父を蹴り倒した。

 そんな俺たち親子をナナはいつもまぶしそうな目で見ていた。まだ7才だというのに甘えることも、しきりに話したがることもない、全然手のかからない子供だった。友人の中にはナナと同い年の妹や弟がいる奴が結構いたが、皆うるさくてかなわないと苦労しているようだった。

 だから、俺はナナを自分に甘えさせようと躍起になった。今思えば12の男がすることでは絶対にない。が、その時の俺にはテストよりクラスの美少女より、何よりナナに甘えてもらうことが最優先事項だった。

 だが、なかなかナナは甘えてくれなかった。手を変え品を変え試みてはみるものの、いつも呆気なく空振り。さすがの俺も半年ほど経ったころには諦めが入ってきた。

 それで、ついそれまでずーっと続けていたナナの添い寝をさぼり、街でナンパされた女の家に泊まってしまった。まだ12の俺をナンパしてきたのは女子大生だったが、その時すでに俺の身長は170を超えていて、しかも俺は自他ともに認めるハンサム君だった。

 翌朝そうっと家に入り、音を立てないように階段を昇って2階のナナの部屋をまず覗きに行こうと思った。わけのわからない罪悪感にかられ、どうにもナナが気になって仕方がなかったのだ。

 が、覗いた部屋にナナはいなかった。

 俺は朝から軽くパニックに陥り、勝手に「ナナがさらわれた!」と思い込んだ俺はナナの隣のハチの部屋のドアを蹴り倒すように開けた。

 ――――その時のショックをどう表現したらいいのか。。

 ナナは、まるでハチに抱きかかえられるようにしてすやすや眠っていた。

 ドアの音で目を覚ましたハチは、俺の顔を見てどこかしてやったりな笑みを浮かべ、隣に寝ていたナナをぎゅうと抱きしめた。

「……ナナになにしやがる!!」

「えー添い寝してるだけじゃん。昨日までずっと添い寝してた誰かさんがいなくて、ナナ昨日の晩泣きながら俺の部屋来たんだぜ?あれは可愛かったな〜〜。」

 俺は、実の弟に初めて殺意を抱いた。そのナナの顔が見たいがために、半年間頑張っていたのは他の誰でもないこの俺だというのに。なぜそれを横からしゃしゃりでてきた弟に奪われなくてはならないのか。たった、たった一晩なのに!

「………今日からはまた俺がやる!」

「えー駄目だよ。ナナと約束したもん、俺。俺はイチと違ってどこにもいったりしないから、これからずっと俺と一緒に寝ような?って言ったらナナ目に涙ためて「うん」って言ったからねー。」

「昨日だけだっ!!」

「まあナナに聞いてみれば〜?昨日すっげーショック受けてたみたいだけどねー。」

 後悔。この2文字を俺はその時ほど感じたことはなかった。

 ―――それから、ナナはずっとハチと一緒に眠るようになり、俺はハチが修学旅行や林間学校のときだけの臨時要員となってしまった。

 

 

 

 そのやさしい関係が終わったのは、俺が高3、ハチが高1、そしてナナが中2のときだった。

 その日、女とラブホに泊まった俺は珍しく朝5時ごろに家に戻ってきた。その女が面倒なことになりそうな感じだったということもあって、目を覚まさないうちにバイバイしようと思ったのだ。朝のキンとした空気の中、ひとつ欠伸を零しながら玄関の鍵を開けて中に入ると、父親の靴がなかった。そういえば学会で1週間ほどいなかったということを思い出し、ハチとナナは夕飯どうしたんだろうと思いながら、俺は数年前同じようなシチュエーションがあったことを何故かふと思い出した。

 それは、変な胸騒ぎだった。

 音をなるべく立てないように、静かに階段を昇る。そして、ハチが中学に入った頃からほとんど訪れなくなった弟の部屋のドアを、俺は静かに開けた。

 

 

 

 

 

「…ハチが知ったら、お前を監禁するかもな」

 あの、異常なまでにナナに執着している2つ下の弟なら、きっと、思う以上に簡単にそれをやってのけるだろう。
 
 
 今から4年前のあの日、俺が見たのはハチのナナへの執着そのものだったのだから。

 ――あの日、俺が見たのは仲のいい兄妹なんかじゃない。


 ただの、男と女だった。

「なんでだろうなあ…確かに血はつながってない兄妹だけど、それでも従妹には変わりないってのに。別に顔がとんでもなく綺麗ってわけでもない、尋常じゃなく女の色気があるってわけでもない。なのに、何で兄の俺すら時々ゾッとするくらい綺麗な顔をしたハチが執着したのはお前なんだろうな。」

 どうして、あの、俺が知る他の誰より綺麗な弟は、俺の妹を選んだんだろう。

 ずっと、ナナが来たその日まで、まるで人間そのものが嫌いだとでも言うような顔をいつもしていたのに。

 なぜ、あんなに、胸が締め付けられるような笑みを浮かべて、ナナを見るんだろう。

 あの冷たい目のどこに、13のナナを犯してしまうような激情を隠しているんだろう。

「…なあ、ハチはどういう風にお前を抱くんだ?」

 それを知って、俺はどうする?

 言ってすぐ、俺は今何を言ったんだと自分自身に恐ろしく吐き気がした。今頭の中で浮かんだ光景に、己の汚さをまざまざと見せ付けられるようだった。

「……イチ兄は、ハチが嫌いなの?それとも、他の誰よりも愛してる?」

 多分俺より、そしてハチよりも聡いだろうナナに、間髪置かずにそう聞かれたことで、その吐き気はさらに酷くなった。

「もし…イチ兄がもう私と会いたくないというのなら、私は二度とあの家には戻らないよ。」

「そうじゃない。…俺にもよくわからない。どうかしてるな、今日の俺は。」

 別に俺はハチを嫌っちゃいないし、それに、誰よりも愛してるわけでもない。むしろ、今日まで、これほど強い感情をハチに、そして目の前の妹に持ったことはなかった。なのに、どうしても、今日はハチに抱かれているナナに優しくできそうになかった。この上なく愛している妹があの綺麗な弟に抱かれていることに、今更ながら嫉妬でもしているというのだろうか。 
 自分でもはっきりした理由がわからないまま、この俺より5つも下の妹に平気で酷い台詞を吐ける俺は、多分どうしようもない兄に違いなかった。

「……………イチ兄、気づいたんだね。」

 いきなり、ナナの声色がすうっと色を失った。それに驚いて、ナナから逸らしていた目をまたナナに戻すと、その顔色も声と同じくらい色がなかった。

 ただ、ただその二つの目だけが、今にも泣き出しそうな、けれどひどくやさしい色をもっていた。

 


「…お腹に、ハチの子供がいる。」



 

 その衝撃を、俺は一生忘れないだろう。

 




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