15−キヨミネ



 

 あれから、前と全く変わらない日常が続いた。

『やろうぜ、セックス』

 あの言葉ほど衝撃的なものを、俺は後にも先にも知らないかもしれない。自分で言っておきながら、その言葉に当然頷くことはできず、「冗談だよ」とチビが言うまでの数秒間、俺はただ黙ってチビの顔を見続けた。その顔には喜怒哀楽と呼べるどの表情も宿してはおらず、チビが台所から立ち去るまで俺はチビのいた場所から視線を外せなかった。

 それでも、あの時のチビが、そして俺がおかしかったことだけは確かだった。

 翌日、明らかに絞められたと分かる痕のついている首を目の前にさらされたとき、俺は自分が思っていたより動揺しなかった。その首を包帯で巻いてチビは学校に登校していたが、その包帯の理由を有朋や麻生に聞かれてもチビはただ笑って誤魔化すだけだった。結局周りは俺がチビにキスマークでもつけまくったんだろうと決め付けたが、隣室の従兄とそのルームメイトだけはそうは思ってはいないようだった。

 その次の日、何かの薬剤の入った袋を持ってきて、チビに渡すように玲一は言った。俺が目で何だ?と問いかけると、「喉、切れてるだろうから」と答えて部屋から出て行った。この勘の良すぎる従兄に助けられることは少なくない。夜、チビの机の上にその薬剤を置くと、次の日の朝には机からその薬剤はなくなっていて、中身と思しき瓶が洗面台に置いてあった。

 


 季節は、もう冬になる。

 

「そういや藤縞さ、クリスマスどうすんの?」

 夕食後、何ともなしに俺とチビの部屋には人が集まる。そのメンバーは大抵決まっているので俺は別に相手をすることなく、この間買ったゲームにいそしんでいた。

「別にどーもしないけど」

「はぁ?マジで?だって学校ちょうど休みに入るのに?…ってか保坂、お前はどうすんの?」

「実家。亜矢子非番っつってたし」

 亜矢子のようなキャリア以外の警察官は年末年始の休みはないに等しい。その代わりにクリスマスイブに1日だけ休みをもらったと亜矢子は言っていた。

「ふぅん。亜矢子さんも気の毒に・・・」

「何か言ったか?」

「イエ、なにも」

 ブンブン首を振る麻生を一睨みし、テレビの画面の目を向ける。が、どうやらちょうどステージの終わりだったようで、そのままセーブして電源を切った。

 首をコキコキ鳴らしながらチビたちの方に体を向けると、有朋がやたらオーバーリアクションで何かの説明をしているようだった。それにバカ笑いをしているのは麻生で、そんな二人を久住はどこか微笑ましげに見つめていた。そしてチビも、有朋の説明をおもしろそうに聞いている。

「――そういや、チビ、お前も一緒行くか?」

「へ?何に?」

「24日。亜矢子と飯食い行くけど」

「あーーいいや。二人で楽しんできて」

「そ」

 多分そう言うだろうことを予想していた俺は、何も思わずそのままチビを後ろから抱きかかえた。そのことに周りも何も言わない。この態勢はほとんど当たり前のようになっていて、文句を言うとすれば当のチビだけだ。が、今日は何も言わない。チビが文句を言う確率は半分だから、今日はどうやら機嫌がいいらしい、とは簡単にはいかない。俺に覆いかぶさられてもいい、チビなりの何かがあるようだ。

 1年に1、2度、チビが周りを拒絶することが、チビの頭の中にある何かのせいであるように。

 そこまで考えて、ツ、とチビの首筋に手を当てた。冬に近づくほどチビの首筋は白くなり、あの時に俺がつけた赤い痕はもうそこにはない。

『殺してくれるかと思ったのに』

 そんなことを言っていた影は、もうどこにも見当たらない。

 あの時、多分チビは誰よりも、もしかしたら亜矢子より俺の近くにいたのかもしれなかった。一人の世界でずっと生きてきて、その世界の唯一の光だった亜矢子より、あの時のチビは俺に近かった。

 俺の中の絶望に、まるで寄り添うように近づいた。

 

 ――俺以上の絶望でもって。

 

 と、チビがクルリと俺の方を振り向いた。その顔はいつもと何ら変わらない表情で、何だ?と目で問うと、チビは俺の耳元に口を近づけた。

「……見つけたんだ、俺の、精神安定剤」

 俺にしか聞こえないぐらい小さい声で発せられたそれは、最初よく意味が分からなかった。耳元から顔を離したチビが、俺の顔を見てニッコリ笑うまで、俺はその意味を考えようとさえしていなかった。

「…どういう意味だ?」

 そう聞いても、チビはニコニコ笑っているだけだった。そのことに少しずつ苛々が募り、チビの手を引いて寝室に行こうと立ち上がろうと思ったところで、テーブルの上でチビの携帯が鳴った。

 ほいほいと言いながらチビが俺の腕から離れてテーブルに這うようにして近づく。

 

 そして携帯を手に取り、耳に当てたときのチビの顔に俺は間違いなく息を呑んだ。

 

 

「相手、誰?」

「さぁ?・・・つーかあの顔、どっかで見たことあると思うんやけど・・・誰やったかな・・・」

 ぼそぼそと話す麻生と有朋の声を、俺は聞いているようで聞いていなかった。いや、有朋の疑問に答えることができるのだから聞こえてはいたんだろう。

 有朋の疑問は、多分俺しか答えられないのだから。

 

 あのチビの顔は、俺が、亜矢子からの電話を取ったときの顔、そのものに違いないのだから。

 

 それで、ああ、と俺はさっきのチビの言ったことが理解できた。

 精神安定剤。確かに、俺にとっての亜矢子も、そう表現するにふさわしい。

 なら、チビにとってのその電話の相手は、俺にとっての亜矢子のような存在なのかと、そう思った。

 

「・・・大丈夫、保坂?」

 久住の静かな声が聞こえる。俺はそれに大丈夫だと答えることはできなかった。

 今俺の腹の中で暴れているこの感情の名前を俺は知らない。だから、抑える方法も知らない。

 俺の知らない誰かと、チビがあんな顔で話しているというだけで、これほど胸糞悪いとは思わなかった。

 電話を終えたのだろうチビが不思議そうな顔で俺を見ている。まるで何も知らない子供のような顔で。

「―――清嶺っ!?」

 多分何を掴むよりも強い力でチビの手首を掴み、俺は今度こそチビを寝室に連れ込んだ。他の3人が気にならないでもなかったが、アホそうでいて勘のいい奴らだから、何も言わずに部屋から出て行ってくれるだろうことは予想がついた。

 そして、そんなことより何より、俺にはしなければならないことがある。

 ―――そこまで考えて、何を?と思った。

 俺は、チビに、何をしたいのか。

 何を、させたいのか。

「どした、清嶺?」

 チビの声でハッと我に返る。そうだ、俺はどうしたんだと思ったが、さっきまで腹の中で暴れていて、今も燻り続ける感情の名前を知らない俺は、その答えも当然分からなかった。

 

 




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