14−イチ



 

 誰かを心の底から望むということを俺は知らない。俺が欲しがる前に、誰もが俺のまわりに集まり、何が欲しいのかも分からないまま俺は今まで生きてきた。それで十分だった。そこそこ綺麗で後腐れのない女。プライベートに踏み込んでこない友人。外の世界で俺に必要な人間関係は、俺が何もせずとも勝手に俺の手の中だった。

 唯一望んだのはナナかもしれない。だが、それはハチのような思いからではなくて、ただ誰にも甘えることのできない妹に甘えることを教えてやりたかったからだ。俺もハチも親父も、ナナのためなら何だってしてやるんだと。

 その役目はもう10年も前にハチに奪われていて、結局俺は何も欲しがらない人間のままだ。

 

 だから、目の前のガキが、俺の知らない誰かのために泣いているという事実は、少し羨ましかった。

 

「・・・落ち着いたか?」

 予約していた部屋はツインにしてはかなり広い方だった。そのベッドの一つにガキを座らせ、俺がそう聞いても、ガキは返事どころか頷きすらしなかった。もう一つのベッドにガキと向かい合うようにして腰掛け、俯いたままのガキの顎を右手で軽く掴み、クイと上げた。

 ――ゾクリとした。

 何も映していない目。多分目の前にいる俺すら認識していない。それどころか、こいつの周りにある全てを拒絶しているような、そんな目をしていた。

「……何が、そうさせる?」

 それでも答えない。仕方ねーな、とガキの唇を俺のそれで塞いでやると、しばらくして息ができなくなったのか目を何度も瞬かせた。そしてやっと自分の状況に気付いたのか、ドンと俺の胸を押す。その力は弱弱しく、逆らうことはひどく容易かったが、俺はこいつの思い通りに離れてやった。

「な、にす・・・」

「なあ、何に絶望したんだ?」

「なに、言って」

「お前、何で泣いたんだ?誰のことを考えてた?」

 こいつの、一番近くにいた奴のことだろうとは分かっていた。それでも俺は聞いた。

 色素の薄い、大きな目から流れる涙が思いのほか綺麗だったからかもしれない。どこか嗜虐的な気分になっているのは自分でもよく分かっていた。

「……なにも、な」

 何もない、そう言おうとしたんだろうこいつに、全部は言わせなかった。言い終える前に、さっきと同じように口を塞いでそのままベッドの上に押し倒した。何が起きたのか分からないとでも言うようなその顔はどう見ても高校生のガキで、なのに誰かのために泣けるこいつは、確かに俺の知らない何かを知っている。

 そのことが、ひどく腹立たしかった。

「言えよ」

 話すたびに唇同士が擦れあうぐらいの距離で、俺はガキの目を見つめた。あまりにも近すぎてその輪郭すらはっきりしないというのに、その目から流れる涙だけは鮮明だと思った。

 また、唇同士が触れる。その感触に、こいつが口を開いたのが分かった。

「…仲のいい、ヤツがいる。1年ときからルームメイトで、同じクラスで。何をするにも、そいつと一緒で、何か決めるのも、そいつが一緒だった」

「…それで」

「……優しいんだ。いつも、俺のために色々してくれて、いつも、助けてくれた。いつも、一緒だった」

 そこで、一旦こいつは言葉を切った。俺が先を促さなかったのは、その口が閉ざされなかったからだ。何かを言おうと小さく開いたままで、そして、微かに震えていたからだ。

「……だから、勘違い、してたんだ。ずっと一緒にいてくれんじゃないかって。し、知ってたのに。清嶺は亜矢子さんがいちばん大事で、俺は、その次にしかなれないってことくらい、俺がいちばん知ってたのに、最近まで、忘れてたんだ」

 ナナと、おにーさん見るまで。

 そう続けて、ガキは、一筋涙を流した。その目を開けたまま。

 その涙に、これか、と思った。ナナが突然俺に電話をかけてきて、ほとんど何も言わずにこいつを俺にまかせた理由は。

 だが、まかされたところで、俺はこいつに何もしてはやれない。

 あの、誰よりも愛することと、愛されることを知っているナナよりは、こいつにとって優しい存在には違いなかろうが、俺の存在理由はそれだけだ。

「…俺には理解できねーよ」

「……え?」

「俺はお前みたいに誰かを欲しがったことなんぞねーからな。欲しがる前に、必要なモンは大抵手に入ってた」

 ガキの上から体をどけて、その横にドサリと仰向けに横になった。

 ペンションらしい、斜めになっている天井が目に入る。静かに目を瞑ると、東京と違って風の音以外何の音も聞こえなかった。

「……必要なモンって、どういうもの?」

 高くもなく、低くもない声。男と女の狭間を行き来しているようなガキの顔にはぴったりだなと思いながら、俺はゆっくり口を開いた。

「面倒じゃない女と、サバサバした友人」

「……サバサバした友人?」

「そう。時々飯食って、時々飲み行って、ってな」

「何が楽しいの?そんな友達」

 何の気負いもなくガキから発せられた言葉に、俺は閉じていた目を開けた。

「……さぁな。少なくとも俺はダチにお前みたいに過剰な期待はしねーよ」

 この台詞が少なからずガキに衝撃を与えることを知りながら、俺はそう言った。案の定、それからガキは何も言わなくなり、そのことに心のどこかで安堵もしていた。

 俺は、ダチといても、女といても、心の底から楽しいと思ったことなどなかった。俺が今までの人生でいちばん楽しかったのは、ナナを甘えさせようと躍起になっていた時期だ。あの頃は、ナナのする行動一つ一つが楽しみで、毎日学校が終わると家に飛んで帰っていた。玄関の引き戸をガラガラとなるべく音を立てて開け、時間をかけて靴を脱いでいると、居間にいたんだろうナナがぴょこぴょこ歩いてきて、「お帰り」と言ってくれる。その声も、姿も、何もかもが愛しかった。

 ナナが家に来た当時、ナナは誰にも甘えず、7歳という年で何もかも自分でやれる子供だった。そのことは見ているだけで悲しく、そして、ナナの顔に浮かんでいる表情は他の誰より表情がなかった。

 ナナの母親は、ナナの目の前で、ナナ以外の誰にも看取られず息を引き取った。母親はもともと免疫力がひどく弱い人で、普通の人間ならば2日で治るだろう風邪で呆気なく死んでしまった。母親が倒れてから死ぬまでわずか1週間で、その間ナナは一人で母親の面倒を看ていたのだ。

 母親の命が1日、1日と小さくなっていくのを、ナナは目の当たりにするしかなかった。

「…お前の母親、今何歳だ?」

 ナナの母親は、生きていれば40になる。22という比較的若い年でナナを産んだ彼女は、俺が覚えている限りひどく儚げな人だった。多分このガキは母親似じゃないだろうかと思った俺は、なんとなしにそんなことが口をついた。

 

 後で思えば、こんなことを聞かなければ、俺はこいつと長い付き合いになることもなかった。

 今から数時間前、猫のように毛を逆立てていたガキを驚かせてやろうとこんなところまで来たのは、ほんの気まぐれだったのだから。

 単なる甘えたがりのガキとしか思わず、明日の夜に別れたきり二度と会うことはなかったはずだった。

 

「……いないよ」

「……何?」

「ちっちゃい頃に死んだ」

 

 その時、俺の頭の中に浮かんだのは紛れもなくナナの母親の死に顔と、そして、その隣で涙一つ零さず正座している7歳のナナの姿。そのナナの顔が、隣のガキの顔にすり変わって、堪らず俺はガバリと体を起こした。

「親父はいるんだろ?」

 意味もなく焦りながら、俺は畳み込むようにそう続けた。それに「うん」という返事が返ってきて、そのことに必要以上に安堵した気がした。――だが。

 

「一緒に住んだのって、かーちゃんが生きてた時だけだったけどさ」

 

 

 そう言って、俺を見て微笑んだこいつの顔は、俺には泣いているようにしか見えなかった。

 

 




HOME  BACK  TOP  NEXT    

                                    


 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送