17 −side r−
桐が、もしかしたら俺が思うよりずっと俺を愛してくれているんじゃないかと気づいたのは、そう昔のことじゃなかった。
時折感じる桐の俺への視線は、俺の考えが正しいことを確信させるほど切実なそれでしかなくて、そのことに俺は内心狂喜していた。
そうやって、俺のことだけをずっと見ていてと、声には出さずに、桐を抱きしめながら何度も心の中で繰り返した。
――それは、どれほどの絶望だったんだろうか。
俺は桐が大事で、そしてそのことを桐に何度も囁きながら、桐は相良とは違うと自分に言い聞かせるために、いつも俺の頭の中には必ず相良がいた。
桐を想うために、どうして相良を思い出さなきゃならないんだろうと自分でも不思議に思いながらも、なぜか桐を想いながら相良を思い出す時は、ただ思い出そうとするより鮮明に相良を思い出させて、俺は無意識に桐を想いながら、それ以上の強さで相良を思い出そうとしていた気がする。
でもそれは、相良を桐より愛していたとか、そういう訳では多分ない。
この数ヶ月、まともな頭では思い出せなかった相良との思い出を、穏やかな気持ちで思い起こせる時間が思っていたより心地良かったからだ。
だがそれでも、俺が桐に大事だと囁きながら、頭の中で相良を思っていたことに変わりはなくて。
それを知って、桐は、一体何を思っただろう。
大事だと自分に何度も囁いた人間が、本当は自分じゃなく他の人間を想っていたということに、どれほど絶望しただろう。
――なのに。
「分かってた」
涙を流して、笑いながら桐はそう言った。
時間が止まったと思った。
だが、途端襲ってきたのはとてつもない後悔と、目の前で声もなく涙を流す桐のあまりの悲愴さに、心臓が極限まで締めつけられたような痛み。
お前は、最低な人間だと、俺自身が叫んでいるような、そんな。
昔、まだ夢と現を彷徨っていた頃、俺の頭の中のほとんどは相良で覆い尽くされていた。
相良の顔、相良の声、相良の体。相良に関わるものなら何でも、小指の爪の先ほどのことですら、ただひたすら愛しかった。
けれど、そんな感情の隙間に、時折入り込んできたのが桐だった。
桐の顔を、俺は確かに少しでも相良を思い出したくて何度も見つめた。だが、確かに時々それは桐の顔にしか見えなくなって、脳裏に少しずつ桐のことが焼き付いてきた。
まるで焼印のように瞼裏に刻み付けられた相良の痕を、優しく和らげてくれた、桐の全て。
空気のにおい。
俺は、確かに桐を、桐自身を、愛し始めていたんだろうに。
なのに、俺の胸にくりぬかれた相良の形の空洞は、その想いでもやはり消すことはできなかった。
目が覚め、ゆっくり体を起こすと、台所で桐が朝食を食べていた。そのあまりに普段と変わらない風景に、俺は昨晩のことは夢だったのかもしれないと錯覚しそうになる。
だが、何も身につけていない自分の体と、ピリと走った背中のかすかな痛みに、それは夢でも幻でもなく、紛れもない現実だったと教えられる。
その辺に脱ぎ散らかしてあった服を適当に身に着け、桐の座るテーブルの向かいに腰を降ろす。すると、桐は「おはよ」と笑って、俺の分のご飯をよそってくれた。
変わらない、風景。
テーブルに並べられた卵焼きの匂い、時折アパートの前を通る車の排気音、桐が椅子を引く音。
何もかもが、前と全く変わらない。
「終わりにしよう、蓮」
その風景に、まるで当たり前のように桐の声は馴染んで、そして、桐は穏やかに笑った。
いつものように、静かに、笑った。
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