16 −side r−
なにもかもが美しく見える時間と、なにもかもが色を失った時間。
その両方を、相良は俺にくれた。
それはもしかしたら、奇蹟とか絶望とか言う名前なのかもしれない。だが、そんな名前など知らなかった俺は、ただひたすら喜び、そしてただひたすら泣くしかなかった。
いつも隣にあったあの鮮烈な存在の不在が、死ぬことすら億劫に思えるほど俺を苛み、その存在が俺の全てであったが故に、俺は彼の幻影を求めるためだけに生きた。
それが、相良が死んだ後の、俺の3ヶ月の全てだった。
そんな俺に手を差し伸べてくれた存在を、どうして俺は忘れたんだろうか。
目の前にさびしく建っているアパートの102号室の中で、俺は俺という存在すら忘れそうになるほど、桐に温かい時間をもらった。相良を求めて桐を抱きしめても、相良を思って桐を呼んでも、それでも、桐は何も言わずに俺のすべてを許した。
『蓮』
思い出すのは、俺が俺でなくても、俺を呼んでくれた声と、
どこか困ったように小さく笑っていた、穏やかな目と、
そして、空気に溶けこむような、やさしい匂い。
何もかもが清浄な、その存在のすべて。
「桐!!」
真っ暗な夜道でその顔すらよく見えないというのに、俺は向こうから歩いてきたのが桐だと確信できた。なのに、どうして俺はその存在を一瞬でも頭から消してしまえたんだろう。
「…レ、ン?」
だんだん、アパートの前の電柱の明りに照らされて、その体の輪郭がはっきりしてきた桐は、俺がもうずっと失くしていて、そして切望していたすべてだった。
髪の先から足の爪の先まで、なにもかも。
そう思ったら、もう抑えがきかなかった。呆然とした表情の桐に駆け寄って、めちゃくちゃに抱きしめた。抱きしめた途端、桐が息を呑んだ音が聞こえて、その呼吸の音すら泣けるほど嬉しくて、俺は桐が辛いだろうと思いながらも腕の強さを弱めることをしなかった。
「きり……桐…桐」
この腕の中の存在を、どうして俺は忘れてなんていられたんだろう。
まるでこうすることが当たり前のように、俺の腕はこんなにも桐を求めていたのに。
忘れてゴメンと、何度も何度も繰り返して、その度に桐が「いいんだ」と言って、笑った。その顔にどうしようもなく泣けてきて、俺は涙を堪えながら桐を強く抱きしめた。
それは夜が明けて、窓から太陽の光が差し込んでくるまで続いて、なのに全然眠くならない自分が不思議だと思った。
「なんか食うか?」
シャワーを浴びて濡れた髪を拭きながら、桐は一緒に住んでいた頃と寸分違わない台詞を言った。そのことが嬉しくて一人笑っていると、桐が「笑ってないで答えろ」と、また前と一字一句同じことを言ったので、俺はどうしようもなく嬉しくなって、背中から桐に抱きついた。
「なんでもいーよ、桐が作るもんなら」
シャンプーの、匂い。
でもやっぱり桐の体からは何の香りもしなくて、そのあまりの変わらなさに俺は一瞬それまでのことを忘れそうにすらなる。
もう何日も桐を忘れて、桐を相良だと思って暮らしていたことを。
「…また、一緒に暮らしていい?」
だから、いてもたってもいられなくなって、俺は桐にそう尋ねた。
腕を強く回しながら、多分懇願するような声で。
「…それは…」
「俺は、桐と一緒にいたい」
桐が何か言おうとするのを遮るように、俺は口を開いた。必要以上に声が強くなったことにも気づいていて、でも、そんなことはどうでもいいと思えるほど、俺は桐の口からイエス以外の言葉を聞きたくなかった。
多分、心のどこかで分かっていたからだろう。
俺には、こんなことを言う資格が本当はないということを。
「桐と、一緒にいたいんだ」
それでも、そう繰り返す俺は、もしかしたら世界で一番身勝手な人間なのかもしれない。
「…俺が相良に似てるから、そう思うだけだ、蓮」
「違う。俺は桐と一緒にいたい。桐と、ずっと一緒に暮らしていたいってだけだ」
さらに強く桐の体を抱きしめながら、俺は繰り返す。
普段まったく働かない頭と口がこうも動くのは、俺が桐が言うだろう台詞を予想していて、そして、どうしても桐の傍にいたかったからなんだろう。
どうしても、この優しい存在を、腕の中に抱いていたかったからなんだろう。
――そう、どうしても。
「桐が、大事だよ。……相良より」
ヒュッと、息を呑む音が聞こえた。
それを、どこか安堵しながら聞いている俺がいる。
「…桐」
耳元で囁いて、俺はきつく目を閉じた。
閉じた先にあるのは、俺が嫌いな真っ暗な闇。
けれど、その言葉が嘘だと知っていた俺は、そうするしか他になかった。
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