16 −side k−




 相変わらず、教授のくれるコーヒーは完璧だと思う。
 無造作に手渡された缶コーヒーは、研究室に入る前に自販機で買ってもらったものだが、俺の希望も聞かずに買ったそれは確かに俺が好きな味だった。

「お前、何で俺がお前の飲みたいモン買えるか不思議なんだろ?」

「………」

 そして相変わらず、俺の頭の中を読むのもお手の物らしい。思わずコーヒーを飲む動作を止めた俺に教授はクと小さな笑いを零し、そしてまるで種明かしでもするかのような楽しそうな表情で口を開いた。

「似てんだよなあ、俺とお前」

「…それには絶対に賛同しかねるんですが」

「お前のその失礼な思考回路は置いといて、似てるのは確かだぜ」

「それはどういう…」

「言ったって当の本人はわかんねえよ。自分で自分は見れねえからな」

 こういう、不意に言われる教授の言葉は、不意だからこそ強く俺の胸に響く。

 なんというか、教授は多分線引きが人一倍上手い人なのだと思う。それは色々な場面での線引きで、違う言葉を使うなら、他人の境界を容易に知ることができるとでも言うか。
 あの人間はここまでなら大丈夫、ここからは駄目という、多分人付き合いで一番重要な基準を、この人は俺が知る誰より分かっている。

 だが、だからこそ、今こうして教授とコーヒーを飲んでいるように、俺はこの人に少なからず甘えてしまうのかもしれない。


「…どうして、俺を欲しいなんて言うんです」


 こんな、いつもの俺なら絶対に言わないようなストレートな言葉を、ぶつけてしまうのかもしれない。


「お前、俺の講義初日に遅刻してきただろう」

「……はあ」

 …やはり、教授の思考回路は読めない。

「なのに堂々と最前列に座りやがって、全然興味なさそうに聞いてるから、ついおもしろくなって当ててみりゃあ完璧な答え言いやがって」

 その、興味なさげに聞いているように見えたらしい俺をおもしろいと思えるその脳みそは、一体何で出来ているんだろうか。

「そんで、絶対おもしれーと思って、コキ使った」

「…成程。俺は先生のおもしろい基準とやらにはまってしまったわけですね」

「そう。俺がおもしれえって思ってるもんは、研究と、お前」

「研究と人間を同列に扱うのはどうかと思うんですが」

「ばーか、光栄に思いやがれ。俺は研究やるのと同じくらいの熱心さでお前とヤってやる」

 それの、一体何を光栄に思えと言うのかという疑問が浮かんだが、それを言葉に出すとさらに疲れそうなのでやめておいた。

 ―――だが。

 一つ溜息をついて伏せていた目を上げた俺に見えたのは、ついさっきまでの表情が嘘のように消えた教授の顔で、そのあまりの温度差に俺は一瞬呼吸を忘れた。

「時田、俺は、欲しいもんは何が何でも取る」

「………」

「欲しいもんは欲しい、いらないもんはいらない。お前は、俺が欲しいもんのうちの一つだ」

「俺、は」

「お前の頭ん中に俺以外の誰かがいるなら、そいつを徹底的に追い出すつもりなぐらいは」

 その、人の悪い笑みをいつも乗せている顔が、いっそ冷たさを感じさせるほど厳しい表情をしたのは初めてかもしれない。
 それが教授が決して嘘を言っているのではないことを教えてくれて、それが分かった瞬間、俺の背中を走ったのは、どうしようもない感情だった。

 目の前の人が、俺を、求めてくれているということ。
 いつも何かに飢えているように見えた教授が、俺に飢えているというその事実は、俺の中の何かを確実に動かす。

 でも。でも、と俺は思う。

「…俺は、そんなことを言ってもらえるような人間じゃない」

「だから?」

「先生」

「お前のここには、誰がいる?」

 いつの間にか、椅子に腰掛ける俺の前に立っていた教授は、俺の胸を手で突いた。それは大した衝撃ではなかったが、体を弛緩させていたせいかそのまま背もたれに背中がつく。そんな俺を上から覆うようにして教授は椅子の背もたれに両手をつき、そして触れそうなほど顔を俺に近づけて、口を開いた。

「俺は、欲しいもんは今まで一つだった。人間で欲しいって思ったのは、お前が初めてだ」

「…先」

「多分、俺はお前が欲しいもんをやれるぜ」

「……っっ」

 どうして、そんなことをこの人が知っているんだと思った。
 目を見開いたまま、目の前の教授の顔を凝視していれば、教授は俺に一つ口付けを落とし、そして、耳元で囁いた。

「お前は、俺と似てるんだよ。欲しいもんは全部手に入んなきゃ、気がすまねえ人間だ」



 たとえば、誰かの代わりなんて絶対にできねえ、とかな。



 そう続けた教授に、今度は噛み付かれるように口付けられ、俺はそれから逃げるように顔を逸らして椅子から立ち上がった。
 教授の歯が俺の下唇を掠めて、ぷつと血が滲んできたのが分かる。そんな俺を教授は楽しそうに見下ろして、そして、俺が研究室から逃げるようにドアを開ける直前、いつもの教授とは思えないほど強い声で俺の名前を呼んだ。その声についドアを開ける手が止まり、ほとんど走りかけていた足が止まった。


「お前は、耐えられねえよ。人より色んなもんのキャパシティがでかい分、絶対的な境界線があるからな」


 その台詞に、思わず教授を振り返る。
 すると、教授はその声が嘘のようにいつもの人の悪い笑みをその顔に乗せ、そして俺が聞いた何よりタチの悪い台詞を吐いた。堪らず研究室から飛び出し、俺は暗い大学の廊下を玄関まで全速力で走り抜けた。







「…ふざけんな」




 ――愛してるぜ、時田。




 その台詞に、あの島で聞いた蓮のうわ言のような言葉を思い出して、俺はどっちを忘れたいのかも分からないまま家までの道を走った。






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