13 −side r−
「……え?」
目を覚ますと、全く見覚えのない部屋だった。わけも分からず部屋を出れば、古ぼけた短い廊下が続いていて、とりあえず人を探そうとその廊下に歩を進めると、一人の老婆が向こうの廊下の角を曲がってこっちに来た。
「ああ、起きたか」
「…ここ、どこ?」
「……波照間島の、民宿さ」
「は?」
「来たとき、あんた夢うつつだった。…あと1時間で船が出るから、帰る用意した方が、いい」
そう言って老婆は踵を返し、老人とは思えないほどしっかりとした足取りで角を曲がって行った。その後姿を見ながら、もしかしたら、夢を見たまま、この島に来てしまったのかもしれないと思った。
――やさしい、夢だった。
死んだはずの相良がまだ生きていて、一緒に暮らしていた。一度も料理なんてしたことのない相良が俺のためにご飯を作ってくれたり、一緒の布団で眠ったりしていた。
そんな長い夢を、俺はもう何ヶ月も見ていたのかもしれない。カレンダーを見ると、俺が思っていた月より3ヶ月も時間が経っていて、それほどの時間を相良の幻影と暮らしていたのかと思うと、どこか信じられなかった。
だって、あれが幻影なんだろうか。
抱きしめた感触も、その暖かさも、何もかもを体が覚えているのに。
「……あ、れ」
何もかも、そう、何もかもを憶えている。相良のことなら何だって。
だが、どうしてこの3ヶ月の相良は、何の匂いもしないんだろう。幻影だから?いや、だとすれば、肌の温度だって憶えていないはずだ。
なら、どうして――。
「…船、来るぞ」
ガラリと引き戸が開いて聞こえてきた声に、俺は思考を現実に戻した。そうだ、帰らないとと思い荷物をまとめようとすると、何故かもうリュックに荷物がまとめてあった。俺にしてはずいぶん用意がいいと思いながらも、夢の中の俺はどこか前とは違っていたから、そういうこともありえるんだろうと気にせずリュックを肩にかける。そして老婆に一礼して廊下に出たところで、そういえば、と振り返った。
「お金、ここで払っていい?」
「もう、もらったさ」
そうなのか?と思ったが、現実にいなかった俺がしていたことをすぐに思い出せるはずもない。だが払ったというのならそれでいいだろうともう一度一礼して廊下に踵を返した。
民宿の外に出ると、蒼い海が一面に広がっていた。この景色を確かに見たことがあると思いながら、一体俺はこれまで何をしていたんだろうと少し笑えた。もしかしたら、それこそとんでもないことをやらかしたりしているんじゃないだろうか。東京に帰ったら杜と万里に聞いてみようと思いながら、俺はどうやら体が憶えているらしい船着場に向かう。
だが、綺麗な下り坂を歩きながら、この坂を誰かと一緒に上ったような気がして、心の中で首を傾げた。
幻影だと思うには、あまりにリアルで。
リアルだと思うには、あまりに幻想的だった。
けれど、その隙間を縫うように、思い出せないとしか言いようのない記憶の欠片がある。
そう、リアルなのか、幻影なのかが分からないというのではなく、ただ、思い出せない記憶が。
だが、それを考えたところで、相良はもう決して戻っては来ない。結局、俺に残るのは相良の不在という事実だけで、他のことはもうどうだっていいと思いながら、俺は船に乗った途端目を閉じた。
―――夢を、見た。
起きたとき、知らず涙が流れていて、なのに夢に出てきた「誰か」も、「誰か」が話していた内容も全然思い出せなくて、ただただ残ったのは、どうしようもない喪失感だけだった。
蓮。
俺は、幸せだったよ。
お前がいきなり家に住み始めたときは、どうしようもなく嫌だと思ったけど、お前との生活は、今まで生きてきた中で一番幸せだった。
…俺の家な、あのアパートからすげー近いんだ。
家出たの去年の秋だから、もう1年近くは家には戻ってない。つーか、戻れねーんだ。
うちの母親、家出るって言った時なんて言ったと思う?
なら、兄貴の部屋広げられる、って言ったんだ。
その時ちょうど兄貴も親父もそこにいてさ、親父は何も言わずに新聞見てて、兄貴は一つ欠伸こぼしてた。それから、母親はすぐに建築業者に電話して、俺の部屋と兄貴の部屋の壁取っ払う工事の予約入れた。
まだ引越しの準備もしてなくてさ、母親が「1週間後に工事する」って言ったから、すげー急いで荷物まとめて、アパート決めに不動産会社に行ったんだ。
なんとか住むとこ決まって家戻ってきたら、親父が珍しく俺に話しかけてきた。何だろうと思ったら、俺に通帳渡したんだ。そんでさ、これがあれば卒業するまで金には困らない、とか言ってな。しかも、母親の機嫌が悪くなるからあまり家には帰ってくるな、って言った。
そんな家族だったからさ、お前が、俺の料理美味そうに食べてくれたり、俺と一緒の布団で寝たいって言ってくれんのは、すげー嬉しかった。
ただいま、とか、おかえり、とか俺、言った記憶ほとんどねーんだ。ちっちゃい頃は言ってたけど、言っても誰も応えてくれなくなって、結局言わなくなった。
だからさ、お前、病院から帰ってきて、ただいま、って言ったことあっただろ?
憶えてるかわかんねーけど、あれ、ほんと、嬉しかったんだよ。言われたことも、言ったこともなくて、お前に「おかえり」って言って、すげー幸せだったんだ。
お前が、後ろから抱き着いてくるのも、全然メーワクじゃなかった。
人の体温なんて、もうずっと知らなかったから。
俺な、ずっと兄貴の代わりしてたんだ。
幼馴染の女が好きで、でも、兄貴には別の女がいて、そうしたら、蕗子が、俺に代わりになってくれって言ってきた。
俺が蕗子のこと好きなの知ってて、俺と付き合うから、「桂さん」って呼ばせてって言うんだ。
…バカだったよなあ。そんな関係、4年近く続けたんだよ。でも、去年の春に、兄貴が蕗子と付き合ってもいいって言い出して、俺は蕗子と別れた。
ずっと好きだった女だったから――まあ、今思えば刷り込みみたいなもんかもしんねーけど、それでも二人が付き合ってんの見んのは嫌でさ、家出てくって言ったんだ。
そしたら、兄貴と蕗子は別れた。
俺のせいだったのか、それとも他の理由だったのかはわかんねーけど、とにかく、兄貴は蕗子を振ったんだ。
そしたら、蕗子な、俺が誰より憎いってさ。なんで、何もなかったように振舞ってくれなかった、って。
ぼろぼろ涙流しながら、そう言った。
だから、俺がお前にとっての「相良」になれるんなら、お前が気付くまで、ずっと傍にいてやろうと思った。
…いや、違う。
俺が、お前のそばにいたかったんだ。
――本当は、忘れんなって言いたかった。
少し、ほんの少しでいいから、……って人間を憶えててほしいって思った。
お前、本当に嬉しそうに、笑ってくれたから。
あんまり嬉しそうで、優しくて、お前見てるだけで俺は幸せだったんだよ。
蓮、――蓮…蓮。
…ありがとうな。
ほんと、ありがとう。
バイバイ。
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