12 −side k−


 

 俺の実家は、このアパートから車で1時間ほどのところにある。大学を挟んで反対側と言ってもいいかもしれない。交通の便も良くて、大学1年の途中までは実家から大学に通っていた。
 家には、専業主婦の母親と、典型的な仕事人間の父親と、俺に顔だけはよく似た2つ上の兄がいる。いや、両親からすれば、俺は「顔だけはあんなに似ているのに」と言われるような弟なのだから、その言い方は決して正しくないのかもしれない。「何を考えているのか分からない」と、母親はまるで他人を見るような目で俺を見て、年を取るに連れ、父親も母親につられるように俺とは話をしなくなった。

 頭が良く、活発で、人の上に立つのが当たり前で、誰からも好かれる。それが、兄の桂(カツラ)という人間だった。

 その桂を、俺が物心知るときからずっと慕っていたのが、隣に住んでいた蕗子(フキコ)だった。俺より一つ上で兄より一つ下の蕗子は、俺との一歳の差は全く気にしていないのに、兄との一歳の差をいつも恨んでいた。小中高と兄と蕗子と俺は同じ学校だったが、兄が蕗子の知らない同級生の女と仲良さげに話していたと言っては、蕗子は俺に泣きついた。それがその翌日には「桂さんにメールもらっちゃった」と言ってそりゃもう嬉しそうに笑っているのだから、女ってのは変な生き物だと思ったものだ。
 だが、そんな蕗子を好きだった俺も、たいがい変だったのかもしれない。しかも、俺が蕗子を好きだと気付いたのは、蕗子が兄を好きだと気付いたのとほぼ同時で、俺の初恋は最初から不毛な恋だった。

 その蕗子と付き合いだしたのが高校1年の夏で、別れたのが大学1年になったばかりの4月。
 そして俺が家を出たのが、その年の秋だった。

 

「…っと、危ない」

 そんな低音が近くで聞こえて、ゆっくりとその声の方を振り向けば蓮がいた。その顔を見て初めて今の台詞が頭の中で理解できて、一体何が危ないんだと聞こうとして、蓮の手が俺の手を掴んでいることに気付いた。

 その手に視線をやって、見えた光景に俺は思わず目を見開いた。

「な…何やってんだよ!」

「…それは相良だろ。そのまんまじゃ指取れてた」

 そう言って怒ったような視線を向けてくる蓮の手の甲は、俺が右手に持っていた包丁のせいでざっくりと切れていた。ただでさえ白い肌にベッタリと流れている血は見るだけで痛そうで、とにかく手当てをしなければとその手を引いて畳の上に座らせる。それから机の下に置いてある救急箱から消毒薬を取り出して脱脂綿に染み込ませ、その脱脂綿を恐る恐る蓮の手に当てた。

「…痛い、よな?」

「うん」

 全く痛そうな表情でなく蓮は頷いたが、傷口を見ればそんなはずはなかった。

「……もうすんなよ、あーゆーこと」

「ヤダよ」

「おい」

 やはり少し怒ったような顔を俺に向けてくる蓮に、俺は思わず厳しい目を向けた。だが、そんな俺の視線など全く堪える様子もなく、蓮は同じことを繰り返した。

「絶対ヤダ」

「…蓮」

「やだ」

「……なんで」



「相良が痛いのヤだし」


 

 泣きそうになった。
 泣いてしまいたかった。
 そのあまりの優しさに、悲しくなくても泣きたくなるんだと初めて知った。 

 俺は知らなかった。
 物心ついたときには、母親はいつも俺を兄と比べては冷たい眼を向けてきたし、父親とは何か話をした思い出さえ残っていない。
 もしかしたら、俺はこの家にいない方がいいのかもしれないと思ったのはもうずいぶん昔で、そうじゃないと気付いたのは高校に上がった頃だっただろうか。
 いない方がいいとすら思われてはおらず、ただ、いてもいなくてもどうでもいい人間なんだと。 

「相良?」

「な、んでもない」

 笑って、蓮の顔を見ようとして、どうしても顔を上げることができなかった。

 蓮が俺に向けるすべてが、どうしようもなく恐怖だった。
 俺は知らなかった。
 俺だけに向けられる優しさとか、哀しみとか、そういう温かいものすべて。

 当然、愛されるなんてことも。

 いつの間にか抱きしめられていて、背中を優しくさする大きな手がある。その手に、喉の奥から何かがせり上げてくるのを必死で堪えながら、俺はきつく目を瞑った。

 

 痛い。
 胸の奥の奥が、ギリギリまで捻り潰されて、押し潰される感触がする。
 こうやって抱きしめられているのに、足の爪の先から体がどんどん冷えていくようだ。

「相良」

 ふわりと、俺に回される誰かの腕がある。その腕のあまりの優しさに、俺はこのまま消えてしまいたかった。




 ―――夢だと、思おう。


 全部、夢だと。

 これは現実じゃなくて、蓮が見ている夢の中に入り込んでいるのだと。
 そうじゃないと、俺は呼吸もできない。

 

 こんな、おとぎ話のような世界で。 

 

 


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