目が覚めても明けない悪夢がある。

 あの日の光景を、航はけして忘れることができない。
 脳裏にこびり付いたあの惨いとしか言いようのない情景を、航はその日が近くなると毎日のように夢に見る。
 夢の中で、あの時と同じように手を伸ばして、そして夢の中でもあの時と同じようにその手は少女に届いてはくれなかった。

 



「―――っっ!」

 ガバリと体を起こすと、目に入ってきたのは暗闇だった。窓にかかるカーテンから漏れてくる光は一筋もなく、ただ部屋に広がるのは漆黒の闇だけ。

「あ、ァ、」

 いつものように、きつく目を閉じて体を丸くする。
 己の体の中には、この暗闇以上に重い罪があるんだと思いながら、そのことに涙が出そうになっても、自分には涙を流す資格などないのだと。

 

「…航?」

 

 耳に届いた声に、航はもう少しで大声を上げてしまいそうだった。
 それは驚いたからでも、その声に怯えたからでもない。
 ただひたすら、泣きたくなるほどその声を渇望していたからだ。

 どうか、どうかお願いだから神様。早く俺を地獄の底に連れていってくれ。

 ――そう、何度心の中で願ったか知れない。
 こうやって、真夜中に飛び起きる航を優しく抱きしめてくれる相手は、航がその命を奪った少女のたった一人の兄だというのに。


「…魘されてたな」

 その声に、航はビクと肩を震わせる。
 そんな航を宥めるかのように海老原は航の背を優しく擦ってくれて、航はもう少しで声をあげて泣いてしまいそうだった。

「誰に、謝ってたんだ?」

「…え」

「ここずっと、お前いつも「ごめんなさい」って寝言で言ってた」

 ひゅっと、声にならない叫び声をあげる。
 うまく呼吸ができなくなって、その息苦しさに、航は一瞬今が現実なのか夢なのか分からなくなった。
 もしかしたら、背を擦ってくれる手は航の願いが作り出した仮構のそれで、もしかしたら、いつもは誰にでもなく叫んでいた「ごめんなさい」という言葉を、届ける相手がそこにいるんじゃないかと。


「ご、めんなさい」


「……航?」

「ごめんなさい…ほ、んとに、ごめんなさい。お、れは、何もできなかった。手を…手を掴むこともできなかった。ま、まだ9つだったのに。ご、めん。ごめんなさい、ごめんなさい…!」

 航の言葉に、海老原は目を見開き息を呑む。それでも、航はただひたすらごめんなさいと謝り続けた。
 止まることを知らない涙が次から次へと溢れてきて、自分が酷い顔を晒していることすら分からないぐらい、何度も何度もその言葉を繰り返した。

 だから、そんな航を海老原が苦しそうな表情を見つめていたことも、そして、耐え切れないようにきつく航の体を抱きしめたことも航は分からなかった。

 



 15のあの日からずっと、航には明けない悪夢がある。
 それは航の体に見えない棘としてずっと残っていて、ふとした時にじくじくとした痛みを作って、航にその悪夢を何度も何度も思い出させた。

 ――だから、航は、それでいいと思っていた。
 海老原があの少女の兄で、そして、航を殺したいというのなら、それでいいと。
 本当は、もうずっと、誰かに己を断罪して欲しくて仕方がなかった気がするのだ。
 まだ10にも満たなかった少女の命を奪ってしまった15の時からずっと。

 だが、確かにそう思っていたのに、海老原にたとえそれが嘘でも愛してもらって、欲が出た。
 愛しているとか好きだとか、そんな綺麗なことばも。
 朝起きたら作られているあたたかいご飯も。
 そういう見ているだけで幸せになれるものを、航は知らなかったから。

 でも、やはりそれは航には許されないのだと分かったのは、あの視線の意味を知った時。

 

 お前は、幸せになんかなれないのだと。

 

 

 

「…起きたか」

 目が覚めると、心配げな表情をした海老原の顔が航の顔の近くにあった。

「すごい熱だったぜ、お前。朝方んなって、やっと下がったんだ」

「…え、びは、ら?」

「あ?なんだ?」

 もしかしたら、心配してくれてる?

 そう聞こうとして、やっぱり言えなかった。

「呼んでみた、だけ」

 そう誤魔化して、へへと笑う。笑いながら、名前を呼べる相手が傍にいることは、それだけでこうも幸福なのかと航は思った。
 すると、海老原はこれまで一度も見たことがないような辛そうな表情をして、そしてその額を航のそれにコツンと当てた。

「…どした?」

「……何でも、ねぇよ」

 海老原はそう言うが、何でもないようにはとても思えなくて、航は布団から腕を出して海老原の頭を優しく撫でてやった。
 途端、海老原は驚いたように伏せていた顔を上げて、航の顔を見る。
 そんな海老原に、航は静かに口を開いた。


「大丈夫だよ、海老原」


 そして、やわらかい笑みを、向けてやった。

 

 

“大丈夫だよ、海老原”

 


 この言葉を、この先1年、航は口癖のように言うようになる。

 

 

 その言葉の先に、航の心の中だけで続けられていた言葉があったことを海老原が知ったのは、もうずっと後のことだった。

 

 






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