最近、海老原が何かにずっと苛ついているのが分かる。
 まるで仮面のような表情をその顔に乗せ続けて今日でもう1週間が経つ。その仮面は大学どころか家の中でも剥がれることはなくて、そのことは航の心臓をきりきりと絞め付けた。
 ただ、その海老原をそうさせる「何か」を、もしかしたら航は知っているかもしれない。
 ここ1ヶ月、航から去ってはくれない明けない悪夢は、決まって夏が秋に移り変わる季節にやって来ていて、その季節は、航が一人の少女の命を奪ってしまった季節だったから。

 海老原里香という、そのときまだ9つだった少女の、小さな命を。



「…なあ航、海、行かない?」

 突然、そんな海老原の台詞が聞こえて、航は思わず「え」と大きく声をあげた。そんな航を海老原はいつものように穏やかな顔で見遣って、そして「行こうぜ」と言って立ち上がる。何の着替えも持とうとはしていないことからしても、別に泳ぎに行くというのではないのだろう。まだ海に入ることの出来る季節とは言え、時計の針はもう夕方の6時を過ぎていた。

「ほら、行くぞ」

「…ああ、うん」

 見るともなしに点けていたテレビを消し、航もソファから立ち上がる。そのときに微かではない目眩が航を襲って、海老原に悟られまいと航は無理やり体を海老原から背けた。怪訝そうに航の名を呼ぶ海老原の声が後ろからしていて、もう少し、もう少しだからと航は心の中で呟く。
 ゆっくりと目を開けて、歪んでいない景色が見えたことを確認してから航は体を向き直した。

「ワリ、トイレ行こうかと思ったけど、気のせいだった」

「…そうかよ」

 呆れた表情をする海老原に、航はへへと情けなく笑う。

 

 二人が暮らし始めて、二度目の秋がやって来ようとしていた。

 

 

 

 

「うーー、やっぱ夜になると冷えるな」

 ざくざくと砂を踏みしめて波打ち際に近付くと、もはや涼しいとは言えない冷たい潮風が航の体を通り過ぎた。
 海に着いた時には時間は既に夜の8時を過ぎていて、月明かりがなければ海と砂浜の境もあまり良く見えない。だが、昼とは違った顔を見せる夜の海はどこか吸い込まれそうに綺麗だと航は思った。

「海老原って、よく泳ぎに来たりすんの?」

 ここに着いてから一度も口を開かない海老原に、航は振り向きざまそう問いかける。だが、車の中でもほとんど喋らなかった海老原は、航の声が聞こえていないかのようにただまっすぐ海に視線を向けるだけだった。
 こういう時、航は決して無理に話をしようとはしない。
 誰しも一人になりたくて、でも一人ではいたくない時がある。もし今の海老原がそうなのだとしたら、航はただそこにいればいいだけだ。
 というより、海老原の傍にいることを許してもらっているというだけで、航は幸せだった。
 その内側をけして航には晒してくれない海老原が、たとえ理由が何であれ、航をその隣に置いてくれるというのなら。


「……昔、よく来てた」

 ぽつりと、海老原が小さく呟く声が耳に届いた。
 それに答えていいのかそれとも黙っていた方がいいのか航が悩んでいると、海老原がゆるい笑みを浮かべながら、なのにそれが笑みなのだとすぐには分からないほど冷えきった眼を、航に向けた。

 

「妹と」

 

 時間が、止まる。

 ――夜で良かったと、航は思った。
 今の己の顔を太陽の下で海老原に見られたのなら、何もかもが終わりだと思った。
 航は怖かった。
 自分がいつか、けれど近いうちに死ぬだろうことがじゃない。
 海老原が全てを知って、航との生活をやめてしまうことが、何より怖かった。

 

 たとえどんなに憎まれても、どんなに嫌がられても、


 海老原と一緒にいたかった。

 

 

「海入ってみないか?」

「…え、で、でも着替えとか」

「どーにでもなるって。…ほら、行こう」

 ぐいと航の手を掴んで、そのまま海老原は海に真っ直ぐ向かって行く。
 もともと波打ち際にいた二人が海の中に入るのにそう時間はかからず、気付けば航は胸まで海に浸かっていた。
 途端、ブルリと寒気が背中を走る。
 太陽の熱がなくなった海の温度は冷水とそう変わりはなくて、ただでさえ体温の低い航から一気に熱を奪っていく。己の体が冷えていくのを感じていると、航は出掛けに感じた目眩と同じような感覚に襲われた。
 ――そして。
 バシャリ、と音を立てて頭から海に沈む。
 薄く開いていた目に見えたのは、ぼんやりと光る何か。それが、水の中から見えた月だったと気付いたのは、呼吸が苦しくなった頃だっただろうか。

 それとも、海老原の体がその光を覆った時だっただろうか。

 意識を失う直前に感じたのは、自分の体が誰かの手でさらに深く水の中に沈められた感覚。
 そして、ぼんやりと、海老原の表情を失くした綺麗な顔が見えた。

 

 

 

 コポ、と水を吐き出した音に目が覚めた。
 真上には海老原の顔があって、やはりその顔には何の表情も浮かんではいない。
 ああ、少し疲れたかもしれないと航が目を閉じると、閉じることを許さないとでも言うように強く顎を掴まれて口づけられた。
 舌に感じる塩辛い味は、多分航が吐き出した海水のせいなんだろう。
 うまく呼吸ができずに堪らず海老原に腕を伸ばすと、海老原は突然物凄い力で航の体を抱きしめた。

「………っっ」

 肺すら押しつぶされそうな海老原の力に、航は思わず息をつめる。にも関わらず海老原は腕の力を緩めようとはしなくて、いっそこのまま抱き潰されて死ねたらと本気で願った。

 


 ――何故か、最後かもしれないと思った。
 自分がこんなことを言えるのは、もうこれきりだと。
 だから、受け取ってもらえないだろうことを知っていても、それでも言わずにはいられなかった。


 





「…愛してるよ、海老原」

 




 

 

 それはいっそ泣きたくなるほど、優しくて、短い時間だった。

 

 

 

 






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