「はじめましてー、黒田って言いまーす。エビの親友兼セックス友達でーす」

 朝一番、いきなり海老原のマンションを訪ねてきた男は、口頭一番にそう言った。
 その台詞、というよりは黒田という男そのものに航が唖然としていると、後ろから現れた海老原が本気で呆れているような声で口を開いた。

「…そういうセンスのない冗談はやめろ」

「え、マジ?俺的には今年サイコーの出来だったんだけど」

「――で?何の用だ」

「決まってんじゃーん。お前のハニー拝みに来たんだって」

 そう言って黒田は興味津々とでも言うような視線で航をまじまじと見つめる。その視線に航が気圧されそうになっていると、黒田はギャハハと声をあげて笑った。

「すっげ、草食動物みてー、このコ!」

「…芹(セリ)」

「つーか腹減った。そこにあるの食っていい?」

「駄目だ」

 いっそきっぱりとそう言い捨てた海老原に、黒田はえーー!?と不満の声を揚げる。そんな二人の様子を航は何とか顔に笑みを作りながら眺めて、そして何気なく食卓の椅子に腰掛けた。
 ともすればカタカタと震えてしまいそうな自分を叱咤して、航は海老原の作ったコンソメのスープをごくりと飲む。飲むたびに歯がカチカチと鳴るのが自分で分かって、航はそのまま残っていたスープを一気に喉の奥に押し込んだ。

「…航?」

 後ろから海老原のいぶかしんだような声が聞こえる。
 その声に肩が震えそうになるのをぎりぎりのところで堪えて、航は何でもないような表情で二人の方を振り向いた。

「へへ、全部飲んじゃった」

「うわ、それ食えない俺への当てつけー?」

「え、ち、違うよ。そうだ、海老原作ってやれよ。せっかく訪ねてきてくれたんだし」

 そう言うと、黒田という男はどこか人を蔑んだような笑みをその顔に浮かべた。だが、一瞬顔を伏せて、それから顔を上げたときにはもうその表情は浮かんでいなくて、その様がどうしようもなく‘似ている’と航は思った。

「そーゆーこと。ってことで何か作って、エビ」

「嫌だね。何か食いたいなら勝手にどっか行って食え」

「うっわー、それって俺はハニーのためにしか作りません、とかいうやつ?」

「何とでも」

 多分、二人は相当気心の知れた仲なのだろうと航は思う。
 普段は必要以上に丁寧な海老原の口調はどこまでもくだけているし、その表情ももしかしたら航といる時以上に素の海老原のような気がする。そんなことに気付けてしまう自分が嫌で、航は振り向いていた体を前に戻した。
 そして、心の中で小さく笑う。
 ――当たり前だろう、と。
 いくら航と海老原が一緒に暮らして1年が経つとしても、海老原の航への感情の全てはこの料理が証明してくれている。
 もしかしたらもう入っていないかもしれないと思うことも確かにあった。けれど、ついさっき海老原が黒田に言った「駄目だ」という厳しい声が、ああ、今日の朝食もやはり‘そう’なのだと。

 時々、本当に時々、耐えられそうにないと思ってしまう時がある。
 昨日の晩、あれほど優しく航を抱いてくれた海老原が、その優しく抱いてくれた手と同じ手で、航をじわじわと殺そうとしているのだと知る度、もういっそ、致死量のそれを入れて一気に殺してくれないかと思ってしまう時が。

 けれど、そう願うことは自分には許されないことを、航は知ってしまった。
 どうして憎まれるのか。
 その意味を探して、辿りついた事実は、航を打ちのめした。



 航が15の時、その命を奪ってしまった少女の名前に。

 

 

 

「おーい、ハニーちゃん?」

「え?」

 ポンポンと黒田に頭を軽く叩かれて、航は我に返る。
 どうも最近、こうして自分の内に閉じこもって考え込む時間が増えたなと思う。

「エビ、何か切らしたからコンビニ行くってさ」

「そっか。ゴメン、ぼーっとしてた」

「いや、らしくていいけどさー…つーか、もう一緒に暮らして1年なんだろ?あんな性悪と同じ屋根の下でそんなに長く暮らせるってだけでマジ尊敬する」

「そ、うかな。でも、いいヤツだし、海老原は」

「わーわーラブラブなこって。ごっそさん」

 そう笑って、黒田は航の背中をバシバシ叩く。
 それに「痛いって」と文句を言いながら、航は黒田から視線を外した。
 見て、いられなかった。
 似てなんかいない。その顔も雰囲気も全然似ていないのに、決定的なところがこうも海老原と一緒だなんて、と航はもう少しで泣いてしまいそうだった。
 やっぱり、海老原もこういう性質の男の方が好きなんだろうか。海老原と同じくらい綺麗な顔をした、どこか「作った」雰囲気を纏わせた人間が。
 それが恋愛感情だろうが友情だろうがなんだろうが、さっき垣間見せた海老原の何時にない気安い雰囲気は、それまでの自分と海老原の生活は何だったのだろうと考えずにはいられないほど航を打ちのめした。

「…ハニーちゃん?マジ、どーかした?」

「な、んでも、ない」

 今にも溢れそうな涙を必死で堪えたと同時に、鳩尾に感じた強烈な吐き気に航はぐうっと呻き声を揚げる。胃の中のものが物凄い勢いで逆流してくるのが分かって、航は口元を押さえながら洗面所に駆け込んだ。

「うっ…ゲッ」

 便座の前に蹲り、朝食べたものをほとんど吐き出す。だが、そこに少しではない血が混ざっているのが分かって、航は自分の体が着実に壊れていっていることを知った。

「おいおい、ハニーちゃん大丈夫かぁ?」

 こっちに来ようとしている黒田の声に、航は急いでトイレの水を流す。そして未だに去ってはくれない吐気を堪えながら立ち上がり、洗面所の水道で口をゆすいだ。
 もしかしたらいつもより血を多く吐いたのかもしれない。口を濯いだ水は赤く濁っていた。

「おーい。まじどーした?」

「………言わないで、くれるか」

「え?」

「俺が吐いたって、海老原に言わないでくれ」

 排水溝に視線を向けたまま、航は後ろにいるだろう黒田に繰り返しそう言った。

「絶対に、だ。黒田さん」

 この懇願が、海老原とその本質の似ているだろう男に届くかどうか分からない。
 だが、たとえそうでも、言わないよりは言った方がマシなのだ。たとえ100万分の1の確率だとしても、これが海老原の耳に入らないのなら。




「……お前、まさか知ってんのか」

 途端聞こえてきたまるで人の変わったような低い声に、航はビクリと肩を震わせた。

「分かってるってことを前提で聞く。…エビは、何をしてる?」

「………何もしてない」

「ちょっとこっち向…!?」

 物凄い力で肩を掴まれ、航は体を黒田の方に向き直させられた。その痛みに顔を顰めていると、何故か目の前の黒田は何かに酷く驚いているような表情をしていた。

「…黒田さん?」

「……ま、さか、お前」

 黒田の視線の先が己の口元にあることに気付いて、航は急いで手の甲で口を拭う。

 そこには、べっとりと血がついていた。

「あ、いつお前に何してる…?!」

「…………」

「おい!?」

「いいんだ!」

「な…っ」



「頼むから言わないでくれ、黒田さん。俺の、多分アンタにする最初で最後の頼みだろうから」



 航は、自分がされているように黒田の両肩を掴み、何度もそう言った。
 航より高い位置にある両肩に縋りそうになりながら、何度も何度も「言わないでくれ」と繰り返した。

 

 コンビニに行っていた海老原が帰ってくるまで、何度も。





 何度も。

 

  




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