あの視線の意味を、ずっと考えていた。
 時折、けれど確かに感じる海老原の視線は、初めて航が海老原と抱き合ったあの日から、さらに酷くなった気さえする。
 季節はもう春になる。
 一緒に暮らし始めてもうすぐ1年が経つというのに、海老原の内側を掠めることはできても掴むことはできそうにない自分が航は本気で厭わしいと思った。

 なのに、欲しい気持ちだけは膨らむのだ。
 何が欲しいのか――それは当然海老原だ。
 だが、航が欲しいのは、普段海老原が見せている穏やかで優しい海老原ではなくて、激しい双眸を航に向ける海老原なのかもしれない。航が海老原に体を向き直せば、フッと消えてしまうもの。
 だから、二人の付き合いが1年に及んだ今でも、欲しいという気持ちは膨らみ続けて、止まることを知らないのかもしれなかった。


 けれど、幾度となく航の頭を過ぎる過去の情景が、お前にそんな資格はないだろうと叫ぶ。
 航はその度に、誰にでもなく何度もごめんなさいと繰り返した。

 

 



「……ぐ」

 まただ、と航は思った。
 朝起きると航を襲う酷い体のだるさ。それは時には呼吸すら奪って、一瞬目の前が真っ暗になる。この状態がもうかれこれ半年は続いていて、己の健康に鈍い航も何かがおかしいと思わざるを得なかった。
 食欲を削ぐようなひどい吐気。講義中、割れるように痛み出す頭。突然息苦しくなる喉。
 そして、激しい咳と一緒に時折吐き出される赤い血。
 己の体の中で何かが起きていると思わずにはいられない体の変調に、そのうち行こうと思っていた病院に今日行った方がいいのかもしれないと、航はだるい体を何とかベッドから起こした。

 

 近所のスーパーの裏手にあった個人病院に行くと、人はほとんどいなかった。病院というよりは診療所といった感じかもしれない。黒い長いすが4個ほどしか入っていない小さな待合室と、名前を呼ばれて中に入れば看護婦が一人もいない診療室。少しばかり不安になりつつも、机の前に座っていた白衣の男を見ると、この病院の古びた雰囲気に似つかわしくない若い医者がそこにはいた。

「どうぞ、椅子にかけて下さい」

「あ、はい」

「えっと…体の調子が悪い、と。どんな風に悪いんですか」

 医者が診ているのは、航が書きこんだ問診表のようだった。受付の看護婦に手渡されたそれに航は何を書いていいのか分からず、そうとしか書くことができなかったのだ。というより、あまりに色々な変調がありすぎて、どれを書いたらいいか分からなかったというべきか。

「その、色々あって…」

「そっか。じゃあ一番ひどいのは?」

「…吐気、です。朝起きると酷く体がだるくて吐気がするし、何か食べようとしても吐気がひどくて食べられないことがあって」

「他には?」

「と、きどき、酷い咳が出るんですけど……血が、混じってたりすることがあって」

「血?吐血してるっていうこと?」

「は、い。何か突然喉が息苦しくなることがあって、そういうときとか」

 そう言って、それまで伏せていた目を医者に向けると、医者は最初に航に見せていた顔とはガラリと変わって、厳しい表情をその顔に乗せていた。そして、突然立ち上がったかと思うと、受付にいる看護婦を呼んで来る。彼女に何かを命じてから医者は航に体を向き直し、丸椅子に腰掛けた。それから航の顔に手を当て、眼を覗きこみ、しばらくして口を開いた。

「ちょっと血液検査と…あと尿検査するね。血を吐いてるとなると、もしかしたら治療が必要な病気かもしれないから」

 不安げな顔をする航を安心させるかのように、医者はその顔に笑みを浮かべてそう言った。そんな医者に航もホウと一つ息を吐き、はいと返事をする。それから看護婦に促されて検査室に行き、尿と血液の検査の他にレントゲン検査や血圧や体重の測定もされ、いくつか問診も受けた。

「じゃあ、検査結果が分かるまで待合室で待っていて下さい」

 看護婦にそう言われ、航はやっと終わったと安堵の息を吐いた。街の大きい病院と違い、検査器具が常に目に入るところにあって、その分検査の進みも速かったが変に緊張してしまった。
 後は検査が終わるのを待つだけだと、航は長いすに腰掛けて目を閉じる。朝感じていた体のだるさや吐気はすいぶん楽になっていて、とりあえず原因が分かれば気も楽になるだろうと思った。

 そう、思っていた。

 

 

 

 バタンと勢いよくドアを閉めて、ドアを背に寄りかかった。
 何をどうやって家まで戻ってきたのか、全く覚えていない。

 医者の制止を振り切って病院から出てきたことは覚えているのに、それ以外の記憶は何一つなかった。ただひたすら足を前に動かして、家に帰りたいとそう願っていただけだ。
 そう、‘家’に。
 己を取り巻く全てが痛みでしかないのに、なのにそれでも彼の匂いのする家に帰りたいと思う自分は、やはりどこまでも哀れでしかないんだろうか。

「う、ァ、あ、あ」

 玄関先で体を丸め、両手で頭を抱え込む。
 見開いたままの目からは止まることを知らないように涙が流れていて、頭を鈍器で殴られるような酷い頭痛がした。
そして額をついたフローリングはひどく冷たくて、それは体の震えを助長するだけでけして止めてはくれなかった。

 ――けれど。


 ガクガクと震える体を持て余しながら、それでも、航は確かにどこかで納得している自分に気付いていた。

 強引に同棲を決められたこととか。
 朝食も夕食も、全部一人で作ってくれたこととか。
 洗い物すら、させてくれなかったこととか。
 なんの取り柄もない航を、好きだと言ってくれたこととか。

 酷い絶望と同時に、ああやっぱりそうだったのかと納得できて、そして、そのことに疑いすら持てない自分に何より絶望しているのかもしれなかった。

 





"砒素中毒症――だね”

 

"…君の症状が一番酷いのは消化器だ。血中濃度から考えると摂取期間は1年弱。だから、ここ1年の食事に砒素が混じっていた可能性が最も高い”



"2年前の食事とこの1年の食事で、変わったところはないかい?” 

 


 

 

 脳裏に浮かんだのは、食事をする航を見る海老原の穏やかな笑みと、そして。

 背に感じた突き刺さるような海老原の視線。

 

 

 あの、視線の意味。

 気になって、知りたくて仕方のなかったもの。






 あれは、航への、海老原ですら隠しきれない憎しみだったのだと。








 自分は、愛されてなどいなかったのだと。

 

 




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