「ずいぶん早かったなあ、ボウズ」

 ほんの数十分前にやっとのことで出た部屋に入った途端、茶髪の男がおもしろそうに直知にそう言った。だが、嫌味くさい笑みが乗っかっているとばかり思っていた顔は、予想に反して苦笑しているような表情にしか見えない。何だ?と思って、ソファに腰掛けている兵藤に視線をやれば、何故か彼も似たような表情をしているように直知には見えた。

「ほら、早く足拭いてください直知サン」

 そう蜂谷に急かされ、直知は自分の足元に視線を戻し、玄関に用意されてあった雑巾で足の裏を拭く。裸足のままで飛び出したせいでとにかく泥だらけだったが、時折ピリと足の裏に小さな痛みが走る。どうやらあちこち擦れたり切ったりしてしまったらしいと直知は内心舌打ちしたい気分だった。

「…ああ、今消毒液持って来ます」

「いい!!」

 咄嗟に直知は大声が出る。

「は?どうして」

「そ、そのうち治るし」

「治りませんよ、多分ずいぶん傷が出来てるはずですから」

 そう言って直知を強引に兵藤の隣に座らせ、蜂谷は台所の方に向かう。そう言えば、つい数分前にこのマンションから数百メートルも離れていない場所で見つかった時も、有無を言わさず抱え上げられたことを直知は思い出した。

 そうこうしているうちに蜂谷が救急箱らしき箱を持って直知の方にやって来る。その箱に、直知は冗談でも何でもなく本気で首をぶんぶん横に振った。

「……直知さん?別に大手術するわけじゃないんですよ?」

「いい!マジで、本当に大丈夫だから、絶対にマキロンやら何やらを俺の足にふっかけないでくれ!!」

 ――そう。直知は消毒薬というものが本気で嫌いである。あのいかんともし難い、沁みるような痛みが腹が立つほど嫌なのだ。
 数年前までは、祖父との稽古では必ずと言っていいほど切り傷が出来ていたが、小さい頃に祖父にあまりに乱暴に消毒液を吹きかけられてからと言うもの、直知は大抵の傷は自然治癒にまかせることにしている。そして、下手をすれば祖父の消毒が嫌なために切り傷を作るまいと剣の腕が上がったのかもしれないと直知は本気で考えている。
 祖父に言わせれば、傷を作ることには躊躇しない癖にどうして消毒液如きを嫌がるのか不思議でならないということらしいが、直知に言わせてみれば、そんなのじーちゃんのせいだ、というところである。

「お前、幼稚園のガキじゃねえんだからよ…」

 はあ、と呆れたように男が溜息をつく。
 だが、何と言われようがどんなに罵られようが直知は絶対に首を縦に振る気はなかった。

「貴方の誘拐を指示した人を教えてあげますよ」

 

「……何?」

 

「だから、手当てさせてください。あ、それと、宮路さんに兵藤さん、どーぞ帰ってください」

 ニコリと笑いながら言うにはずいぶん失礼な台詞だと直知は思ったが、二人は別にそれに何も言い返すことなく蜂谷の言葉どおり家から出て行った。そう言えば、あの茶髪の男は宮路というのかと思いながら、直知はドアが閉められる音を聞く。
 が、それで油断していたのがいけなかった。

「う…わっ!?」

 突然足を掴まれ、バランスを崩してソファにどすんと背中をつく形になる。そのまま体をソファに仰向けにさせられ、気付いた時にはもう遅かった。

「!!!??」

 言葉にならない、あの、焼け付くような痛みが足の裏全体に広がる。もしかしたら祖父のそれより乱暴な蜂谷の手当てに、直知は声すらあげられなかった。

「………っっ」

 場所を変えて吹き付けられる消毒液に、目尻に涙が浮かんでくる。刀傷ですら痛いと思ったことなどほとんどないのに、どうしてあの透明な液体のせいで涙まで流さなくちゃならないのかと、直知の方こそ祖父に聞きたかった。

「終わりましたよ」

 だから何だ!と怒鳴りたい。
 未だじんじんしている足裏の痛みに直知は顔をあげるのすら億劫で、マンションにしては高い天井をただただ見つめるしかなかった。

「……ふぅん」

 が、突然目の前に現れた男の顔に直知はギョッとする。その顔に浮かんでいる表情がどんなものなのか、涙で少し視界がぼやけている直知にはよく分からなかった。
 ――しかし。

「やっぱり、色っぽいですねえ」

「……ハ?」

「いや、さっき宮路サンに刀向けてる貴方の顔見た時そう思ったんですけど、痛みに耐えてる顔もなかなかですよ」

 何を言ってるんだ、こいつは。
 すっかり視界の晴れた目を蜂谷に向け、直知は頭の中でそう独り言ちる。が、見えた先にあった蜂谷の顔は、本当にどこか感心しているような表情で、直知は以前とは違う意味で目の前の男が恐ろしくなった。

 

 しかし、次に聞こえた言葉に、直知の頭の中は真っ白になる。

 

「貴方の叔父さんですよ」

 

「……え?」

 

「私に貴方の誘拐を指示したのは、貴方の父親の弟にあたる人です」

 

 




HOME  BACK  TOP  NEXT

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送