日下と凪が住んでいたのは、俺のアパートからたった2ブロック離れた場所だった。
 朔田凪の絵に一目惚れしたと言っても過言じゃない俺は、それ幸いと大学が休みの日は必ず凪に会いに行った。凪はいつもそんな俺を快く迎え…てはくれなかった。いや、別に邪険に扱われているとかそういう訳では決してない。俺がインターフォンを押せば、凪はにこにこ笑いながら玄関のドアを開けてくれる。
 ただ、天才というのはやはり変人と紙一重というか。


「……その手に付いてんのは何だ」

「ん?手錠」


 それが、俺が初めて日下と凪の家に行った日の、俺と凪の会話だ。
 俺は日下と会ったその日にそれこそほとんど強引に交友を深めようとバーに誘った。もちろん朔田凪に会いたいというミエミエの下心からだ。だがその下心が分かるからか、それとも単に俺と飲むのが嫌だったのかは分からないが、とにかく待っている奴がいるからと断られた。
 が、彼女?と聞くとそれには頷かずに恋人だと言うので、ってことは恋人は男なのかと、驚きながらも不思議と平然と受け止めた俺がいた。

 それは、俺の人生の中で一番鋭く働いた勘というやつだったのかもしれない。

「…恋人って、朔田凪か?」

 ほとんど無意識に口に出たその言葉に日下は少し目を見開いていたが、すぐに表情を戻して首を軽く縦に振った。

 そこから俺の行動は早かった。
 矢継ぎ早に「頼む、会わせてくれ」「俺は彼の絵の大ファンなんだ」「お願いだ、一生のお願いだ」とまるで小学生のように言い募り、そんな俺に根負けしたのか、最初はかなり嫌そうな顔をしていた日下も最後には――俺のお願いは少なくとも2時間は続いていた――渋々承諾してくれた。

 そして、その翌日に早速訪ねた二人の家の玄関でのやりとりが、あれだ。
 最初は出てきたのが朔田凪本人だとはこれっぽっちも思わなかった。というより、目の前の人間が俺と同じ常識人なのかすら怪しいとだけ思ったのを憶えている。だってそうだろう。左手にじゃらじゃら手錠をつけたまま来客に応じるホスト(主人)など聞いたこともない。

「…日下はいるか」

 出てきたのがどう見ても変人にしか見えないような奴で、しかも俺より年下だろう容貌をした男に、俺は初対面にも関わらずどうしても敬語を使う気にはなれなかった。

「スイなら買い物。でも金髪の日本人でマナブって男が来るから適当に入れてやれ、っては言われてるけど」

「…………」

「あんたマナブ?」

 ここがスラムならこいつは真っ先に絶好のカモになるだろう、俺のこいつの第二印象はそれだった。

「…そう。ってことで入っていいか?」

「どーぞ」

 そう言ってニッコリと笑った男の顔にため息をつきながら視線をやると、あれ、と俺は内心首を傾げた。日本語はペラペラ…というには少しガサツだが、とにかく日本語をこれだけ喋っているのだから日本人だとばかり思っていたが、よく見ると目の色が格段に薄い。一つ気付けば他も気になるのが人間というもので、そういえば髪の色も染めていないだろう薄茶色をしているし、肌の色も黄色人種には思えないほど白い。
 そんなことを思いながらも、それを目の前の変人に聞くのはどうしても憚られた俺は黙って部屋の中に入った。

「結構広いな」

 日本に比べて天井の高いこっちの家は、日本人男子の平均身長の上を行く俺にはかなり住みやすい。実家では台所の引き戸の鴨居に頭をぶつけるのが日常茶飯事だったからか、ついこっちでも台所に入るときに頭を軽く下げてしまう。

「そう?あ、何か飲む?」

「適当でいい。…つーかお前誰?」

 そういえば、と目の前の変人の名前を聞いていないことに思い至った。


 ――だが。


「あれ?スイから聞いてないのか?ナギだよ。朔田凪。あ、呼ぶのは名前の方でいーから」




 ………………え?




「さ、くた、なぎ、だと?」

「おお。どーぞよろしく」


 こいつが。
 この、初対面で手錠つけてニッコリ笑って玄関のドア開けたこの変人が。
 俺が、憧れてやまないあの朔田凪、だ?


「嘘だろ!?」

「なんで嘘だよ」

「おま、お前が!?『光』を描いたあの朔田凪!?」

 誰か嘘だと言ってくれ。
 そんなドラマの台詞のような一文が頭の中で何度も繰り返される。だが、この変人から目を逸らそうと向けた部屋の壁には確かに朔田凪のものだろう絵が無造作に何枚も貼り付けられていて、そしてその無造作さが無秩序には見えないように綺麗に壁を覆っており、俺は否応なしにこいつが朔田凪だと信じざるを得なかった。

 そ、そうだよなと俺は無理やり立ち直った。
 天才は変人と紙一重だと言うし、と。
 天才だから、仕方ないんだと。

「そ、そうか…お前が」

 そう顔を引き攣らせながら変人…もとい凪に視線を戻すと、凪の顔は明らかに強張っていた。
 その顔に、俺は内心ぎゃーーと悲鳴をあげる。さすがに初対面の相手に、しかも天才画家に失礼なことを言いすぎたと謝ろうとした瞬間、凪が強張った顔のまま口を開いた。

「…その、『光』って、水墨画の?」

「へ?あ、ああ、そうだけど」

「……いつ、どこで見た?」

「1年前。ほら、アンタの親父のレイ・サクタの展覧会で」

「…………っっ!!」

 ただでさえ白い肌がさらに色を失っていく様を、俺は初めて見たかもしれない。
 その顔はもはや人形のように生気を感じさせないほど白くて、俺は動くことすらできなかった。

 ――そこに、ガチャリとドアノブの開く音がする。

「…もう来て……ナギ!?」

 買い物から戻ってきたんだろう日下が、大きな紙袋を投げ捨てて凪の所に走り寄る。すると、凪はフッと表情を和らげ、だがそれでも肌は青白いままで小さく「おかえり」と言った。そんな凪を日下は見ているだけで強いと分かる強さで抱きしめ、なのにまるで凪の方が日下を抱きしめているんだとでもいうように凪は日下の背を何度も撫ぜた。

 その優しい光景に、俺は不覚にも少しだけ感動してしまった。


 が、数秒後ギンと恐ろしい眼光を日下は俺に向け、無実だという暇もないまま俺の体はソファと一緒に後ろにひっくり返った。
 絶対に理不尽なことをされているというのに、全然怒りの感情が沸いてこない自分が不思議だと思いながら、だんだん痛みが激しくなってくる後頭部に俺は手をやった。




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