A day without sunshine is, you know, night.   - Shannon

 

 

2−キヨミネ




 初めて殴られたのは、家政婦が来てから2週目の日曜だった。

 俺は、多分5歳の子供にしては喋らない方だったと思う。家政婦は初めの1週間は俺によく話しかけてきたし、俺と遊ぼうとしていたようだが、俺はそれでも一人で遊んでいた。それは家政婦が気に入らなかったというわけではなく、ただ一人で遊ぶ方が好きだったからだ。
 だが、だから、だったんだろうか。
 いきなり頬に強い痛みを感じて、呆然としたのを覚えている。
 叩かれたのだと思ったときには、今度は反対側のこめかみに強い衝撃を受けて、俺の体は見事にひっくり返った。床に倒れたときに最初叩かれた頬がカーペットに擦れて、そのやわらかい生地と頬の摩擦すらひどい痛みになった。

 ――それからは、毎日が地獄としか言いようがなかった。
 顔を殴られたのは最初の日だけで、次の日から家政婦は服に隠れて見えない場所を殴るようになった。ただ殴っていただけだったのが、段々足で蹴られるようになり、時には煙草の火を素肌に押し付けられた。
 やめろと叫んでも、助けてと叫んでも、家政婦は決してやめてはくれなかったし、誰も助けにきてはくれなかった。5歳のガキでしかなかった俺ができたのは叫ぶことと、少しでも拳や足から逃れるために体を丸めること。
 だがそれでも、体じゅうに広がる痛みだけは俺から去ってはくれなかった。
 殴られるたびに今殴られた箇所と、その数秒前に殴られたところが同時に痛んで、その繰り返しが体を襲ってもうどこが痛いのかも分からなくなっていった。

 その痛みが毎日続くと、その痛みにも鈍くなっていって。
 そして、助けてくれる人間がいないことにも慣れてしまった。
 だから、俺はすべてを諦めた。―――諦めるしかなかった。
 思うことも、動くことも、話すことも、すべてやめた。
 助けを呼ぶことは、もうとうに諦めきっていた。

 両親が家政婦の虐待に気づいたのは、結局それが始まってから半年も経った後で、5歳の子供がおかしくなるには十分すぎる時間だった。

 

 もう誰も信じられなかった。
 近付いてくる人間はそれだけで吐き気がして、そいつが俺を殴るんじゃないかといつも思った。
 最初は頻繁に俺に会いに来ていた両親も、仕事が忙しいのかその頻度は見る見るうちに少なくなっていき、結局俺のそばにずっといたのは亜矢子だけだった。俺がどんなに邪険にしても、時には物を投げることさえあっても、亜矢子は決して俺から離れなかった。
 今思えば、それはまるで手負いの獣に近付こうとする医者のようだったかもしれない。
 その優しさを俺が信じることができるまで、亜矢子は根気強く待ってくれた。
 そして、何もかもを信じられない俺に、すべてを教えてくれた。俺をいつも優しく抱きしめてくれて、話せなかった俺に言葉を教え、動けなかった俺に走ることを教えてくれた。
 思っていることは、声に出していいんだと教えてくれた。
 ずっと忘れていた当たり前のこと―――笑うことも、怒ることも、泣くことも、全部、亜矢子に教えてもらった。 俺を、普通の人間にしてくれたのは、亜矢子だった。

 亜矢子だけが信じられた。

 俺が誰かに縋りたいときにはその誰かになってくれて、俺が誰かを怒鳴りたいときにはその誰かにさえなってくれた。

 

 周りの誰もが信じられない俺にとって、この姉ならずっと愛せると思った。

 

 

 他人は嫌いだった。
 亜矢子しかいらなかったから、亜矢子以外の人間は俺の脳みそには入ってこなかった。
 嫌でも寄ってくる女には、性欲を解消してもらえればそれでよかった。
 それでも年上の女ばかり選んだのは、俺の一生消えることのない亜矢子への思慕ゆえなんだとは思う。柔らかい体はそれだけで気持ちが良かったし、同い年の女のように与えられることだけを望まない年上の女たちは付き合う上でひどく楽だった。
 中学に入って亜矢子と離されて、それを埋めてくれる上等な年上の女であれば多分誰でも良かった。それに、物分りがいいのも年上の女の長所だと思う。つかず離れずの関係を続けられることは、一生亜矢子以外心の中に入れるつもりのない俺にとって都合がよかった。

 友達なんてものはもっと必要なかった。誰かとつるむ気もさらさらなかったし、必要以上に騒ぐクラスメイトの男共とわざわざ仲良くなろうという気も全く起こらなかった。



 だから、高校の入学式であいつに会ったことは、いい意味にしろ悪い意味にしろ、俺にとって何かの分岐点ではあったんだろう。




 最初は、ずいぶんキレーな顔してる男だとしか思わなかった。ああ、あとはゲームの邪魔すんなとも思ったか。今まで会ったどの女より可愛いツラをしていながら制服がどう見ても学ランで、ただでさえ実家を出ることでむしゃくしゃしていた俺はいい餌食が見つかったとばかりに初対面の男に「タイリクモモンガ」と言って舌を出した。なんとなく直情型だろうと思ったそいつは案の定大声でわめき始め、結局入学式から退場騒ぎを起こすハメになった。
 たまたま隣に座っていた男をバカにすることくらい、その時の俺にとってゲーム機のボタンを押すのと同じくらい簡単だった。

 寮に行けば、同室の人間がいないと聞いてそりゃもう安堵した。これから1年誰かと同じ部屋で過ごすなんてことは俺には想像すらできないほど悪夢だったからだ。入学初日から名前も知らない女とラブホに行っては門限ギリギリに寮に帰る――多分、そんな生活が3年続くんだろうと思っていた。

 だから、それから2週間後に、入学式で会ったモモンガが部屋に現れたときには俺の機嫌は地の底に落ちた。それはルームメイトなんぞ面倒なものを迎えるハメになったことだけが理由じゃない。そいつが、まるで親の敵でも見るような顔で俺を見てきたからだ。そして、やはりと言うべきか俺とそいつの共同生活が上手くいくはずもなく、何でもないことで衝突する日々が続いた。

 そんな日常に嫌気が差し、玲一と善也に文句を言いに行って――あいつが、3つの位牌をもってきたことを聞かされるまでは。

 

 それからあいつと何故か親しくつきあうようになると、あいつが、そのツラほどには可愛げのある過去をもっていないことを知った。母親を亡くし、父親に置いていかれ、傍にいた祖父母にも死なれて。

 なのに、なにもかも独りで耐えてきたやつだった。
 笑うことも、泣くことも、怒ることも、すべて忘れないで生きていた。
 おかしいと思えば笑い、悔しいと思えば泣き、そして、俺を殴って怒ることのできるヤツだった。

 殴られれば痛いんだと、思い出させてくれたヤツだった。

 顔は誰より俺好みで、中身もその顔に負けないほど無垢だったあいつは、俺の中の何かを確かに動かした。
 あいつが甘えたいのなら甘えさせてやりたいと思ったし、あいつが行き過ぎるときはそのストッパーになってやると思った。あいつが望むことは、すべて叶えてやりたいとさえ思った。

 そしてなぜか――俺はまるでその代わりにとでも無意識に思っているのか――藤縞宝という人間は、心とか体とか、その全てを自分の手の内に収めたくなるようなヤツだった。

 

 なのに、あれほど真っ白な人間は知らないというほど無垢な人間なのに、確かにあいつには、俺と同じ空虚があり、俺と同じ絶望がある。

 

 ことあるごとに、あいつは俺の中での亜矢子と自分を比べて、俺はそれをどうしようもない気持ちで見てきた。だが、俺にはあいつが欲しがっているものが手に取るように分かる。

 あいつがほしがっているものは、亜矢子が俺にくれたもので、

 そして、俺が亜矢子に求めたものなのだから。

 

 

 俺の中のあいつが一体どういう存在なのか、それを俺は今でも量りかねている。 

 

 俺が分かっているのは、俺の中の絶対が永遠に亜矢子だということだけだ。

 

 

 

 それを、チビも知っている。

 多分、そのことにどうしようもなく傷つきながら。

 

 

 


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