「…京都、ですか」

「ああ。君が修論に使う加速器がこないだ壊れただろう?かと言ってすぐ買えるような代物でもないし。それで君にテーマを変えてもらおうかと思ってたんだが、私の後輩が、それなら自分のところに研究生として半年ぐらい来たらどうかと言ってくれてな。あそこなら実験用の機器も豊富にあるし」

「……成る程」

「まあそう気に病むようなことでもない。研究生と言ったって名前だけで、君は実験に専念していいんだから」

 人のよさそうな顔をくしゃくしゃに崩して笑う教授に、夏は心の中だけで溜息をつく。
 別に例の機器さえあれば己の研究はどこでやったって構わない。沖縄だろうがアメリカだろうがどこへでも行く。だが、どうしてよりによって京都なのか。
 この世界で、夏にとって其処だけが鬼門だというのに。

「ああ式部(シキベ)君、手続はすぐ済むから、1週間後には向こうに行ってくれたまえ」

「…分かりました。色々ありがとうございます」

「まあ気にするな。飛び級がかかってる論文だ。出来上がりを楽しみにしてるよ」

 人の気も知らないでと心の中で呟きつつ、夏は一礼して教授の研究室を後にする。部屋を出た途端大きな溜息が一つ出て、夏は右手で顔を覆った。
 どうして、と思う。
 どうして今になって――何とか、あの喪失に慣れることができた今になって、喪失した筈の人間がいる地に行かなければならないのだろうと。
 ――そう、自分が殺した相手がいる場所なのだ。
 あの、靱いようでいて脆い幼馴染の精神を、紛れもなく、己の手で殺してしまったというのに。
 その人間が――日高がいる地に、この己自身が、行く――?

「―――ッッ」

 背筋を、何かがものすごい速さで駆け上った。
 どこまでも冷たく、なのにどこまでも熱い、何か。

 それは確かに、日高の不在を訴える、夏自身のどうしようもない飢えと渇きだった。

 

 

 久しぶり、というべきなんだろうか。
 そう心の中で独り言ちて、陽は門をくぐる。明治時代に建てられたらしい義母の生家はその年月の分古ぼけてはいるが、外国人が見たら泣いて喜びそうな日本美そのものだ。数年前に一度だけ訪れた時と変わることなく、門から玄関までの石畳の両脇は緑で溢れ、きっと、秋には美しい赤や黄色に色を変えるのだろう。
 玄関に辿り着き、陽はふうと一つ白い息を吐いた。冬の京都は陽の身体にとってけして良いものではない。外の移動はほとんど車の陽にとって、外気の冷たさは思いのほか堪えた。

「…行くか」

 およそ4年ぶりに会う弟が住む家を前に気後れしないわけがないが、このまま外にいても体が冷えるだけだ。怖気を振り払うように今度は大きく息を吸って、陽はゆっくりと呼び鈴を押した。
 鳴ったのは、ジーというどこか懐かしい音だった。
 しかし、しばらく待っても返る返答はない。留守だろうかと思いながらも二度、三度と押してみたが、返ってくるものはなく、やはり家の中には誰もいないようだった。
 ――さて、どうしよう。
 突然訪ねた家が留守ということはよくあることだ。だが、なぜか陽はそのことが頭になかった。むしろ、わざわざ東京から訪ねてきてやったのに何故留守なのかと不満を覚えるほどに。
 しかし、不満を覚えたところで連絡もなしに来た己に非があることは陽とて分かっている。仕方ない、夜にでもまた来るかと踵を返したところで、ガサ、と緑を踏む音が聞こえた。誰だろうと面を上げると、そこにあった顔にさしもの陽も思わず小さく声を上げた。
 訝しげな顔で陽の方へと歩いてくる男の顔を、陽は見たことがあった。それも、何度も。
 駅に向かう途中のビルボード、何かの雑誌の表紙、そして、スクリーンの中。
 多分、この男を今日本で知らない者はいない。

「…誰、アンタ?」

 夭折の小説家を演じて、一躍その名前と顔を世界中に知らしめた天才俳優。
 葛籠秋之(ツヅロアキノ)、その人だった。

 

「なんでここに…」

 それは秋之に尋ねるつもりで出た台詞ではなく、思わず口をついてしまったものだ。だが、秋之はそうは思わなかったようで、同じ台詞をもう一度問いかけられた。

「アンタ、誰?」

「え?……あ、の、ここに弟が住んでいるはずなんですが」

 有名人を前に気後れしてしまう自分を意識しながらも、陽は何とか伝えたい言葉を声に出す。

 だが。

 

「……アンタが、日高の兄貴か」

 

 そんな台詞とともに、ゾクリとするような冷たい笑みが返ってきた。
 その笑みに目を奪われ、陽は秋之が弟の名を呼び捨てたことに疑問を覚える暇がなかった。

「あと1時間もすりゃ帰ってくるだろ」

 そう言って陽の脇を通り過ぎた秋之に、陽はハッと我に返る。
 玄関の方を振り向くと、秋之が慣れた手つきで玄関の鍵を開けていた。そして、開けた引き戸は閉じられぬまま、秋之は三和土で靴を脱ぎ、中へと入ってゆく。
 開けられたままのそれは、中に入れという意味にとっていいのだろう。
 ハアと今日何度目かの溜息をついて、陽はゆっくりと玄関の中へ進んだ。

 家の香りは、一度目に訪ねたときのそれと変わらなかった。

  




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