カチ、カチと聞こえる音は、廊下にあった古い柱時計の振り子の音だ。静まりかえる部屋でその音だけが鮮明で、陽は通された居間で居心地が良いとはいえない気分を味わっていた。
 さすがに以前来たときとは様変わりしているとは言え、部屋の持つ雰囲気はあの時のままだ。文明開化の時代に建てられた家は、文化財として登録されてもおかしくないほどその時代の空気をずっと纏い続けている。事実、行政から登録の申出を受けた回数は片手では足りないようだったが、私宅に行政の手が入ることを嫌った義母の祖父のおかげでここは静寂を保ち続けている。
 しかし、今陽が置かれている静寂はそう言った好ましいものでは全くない。
 皮製のソファの上で所在無さげにしている陽に気づいているだろうに、秋之は素知らぬ顔で向こうの部屋にある籐の揺り椅子で本を読んでいる。それでも、陽から見える距離にいてくれるだけまだマシなのかもしれないが。

「…あの」

 だが、さすがに既に30分も続く沈黙に耐えられなくなり、陽は口を開いた。無視されるかもしれないと思ったが、秋之は視線を本から外さずに低い声で応えた。

「何」

「貴方は弟とは…日高とは、どういうご関係ですか」

「さあ」

 表情を1ミリも動かすことなく、秋之はそれだけ言ってまた沈黙が流れる。確かまだ秋之は18のはずなのに、ずいぶんと老成しているように見えると陽は思った。
 だが、老成さだけ見れば、生まれたときから他の子供が持つ可能性の大半を諦め続けてきた陽も似たようなものだったのかもしれない。諦める必要のない年齢で、陽は色々なものを切り捨てなければならなかったのだから。
 そして、多分それが。
 己にある少ない可能性にみっともなくしがみ付くことを、陽に躊躇させなかったのだろう。
 ――たとえば、けして自分を愛さない。けれど自分の所有物である弟の幼馴染のように。

「ここは母の生家のはずです。ここに日高以外の者が住んでいるとは聞いていません」

「…アンタに関係ないからだろ」

「僕は母の息子だし、日高は弟です」

「それで?」

「え?」

「自分を家から追い出した人間を家族だとは思えないね、俺なら」

 陽を見ることもせず、本に視線を落としたまま放たれた台詞は、どうしてそこまで知っているのかという疑問と、他人に自分の恥部を覗かれた強烈な羞恥心を沸きあがらせた。それは、けして陽を見ることをしない秋之の態度にも現れているかのようで、今ここにはいない弟に再び憎悪の念を抱かせるには十分だった。
 ――そして。
 まるで狙ったかのようにガラガラと玄関の引き戸が開かれた音がした。

 

 

「久しぶり、日高」

 居間に現れた弟は、そう言って微笑んだ陽に若干目を見開いたものの、すぐに淡々と「お久しぶりです」と返して陽の向かい側のソファに腰掛けた。
 およそ4年ぶりに見た日高は年齢の分大人びてはいたが、そう以前とは変わっていないように見えた。ただ、陽の記憶の中にいる日高より、少し痩せ、そして、肌が白くなったように感じた。夏と一緒にいたあの頃は、健康的な男子高校生そのものだったのに。
 しかし、その内側は、以前とはずいぶん変わってしまったのだろう。以前は緊張と畏怖が混じった複雑な視線を向けてきた弟は、今、陽を何の感情もなく見ている。

「…秋之、部屋行ってろ」

 ポケットから煙草を出し、日高はそれに火をつける。そして煙を吐き出しながら放たれた言葉に、秋之は素直に従ったようだった。
 ただ、部屋に行く前に、日高のこめかみに軽くキスを落としてはいったが。

 

 バタン、と秋之が部屋に入った音がして、部屋に静寂が戻る。
 やはり、カチ、カチと時計の音だけが鮮明だった。

「……で、何の用です」

「…久しぶりだし、近況報告ぐらいしてくれてもいいんじゃない?…たとえば、どうして俳優の葛籠秋之がここにいるのかとか」

「何の用です」

 冷たい――いや、冷たいというよりは、温度の全く感じられない視線を日高は陽に向けた。
 もう、目の前の人間に畏怖などする必要はないと、日高は多分色々なものを切って捨てたのだろう。あの家で、目の前の弟が父親に気を遣っていたのはさしもの陽とて知っている。
 当然、それに同情などしたことはない。むしろ、ざまあみろと内心舌を出してさえいたのだ。
 そして、そのことを多分この聡い弟は気づいていただろう。けれど、父親のことがあってそれを態度に出すことなどできなかったのだ。
 ――もう、今となってはその必要はない。

「…生前贈与をね、日高にしようって父さんと話したんだ。その代わり、二度と実家には帰ってこないで欲しい」

 なら、もう己も美辞麗句は不要だろう。――というより、あの光景を見せた時点で、どんな綺麗な言葉を並べ立てたとしても、弟は己に嫌悪の目しか向けないのだろうが。

「……金はいりませんし、それに、そんなことしなくても家には帰りませんよ」

「駄目」

「…え?」

「夏に会って欲しくないから」

 そう言った途端、それまで鉄面皮だった日高の顔に、初めて感情らしいものが窺えた――気がした。だが、そんな気がしただけで、本当にそうだったかはどこまでも疑わしい。
 何故なら、日高は大声で笑い出したから。

「―――ッッ」

 笑い終えた日高が浮かべた貌に、陽は思わず息を呑む。
 その、あまりに凄絶すぎる笑みは、なぜか秋之がしたそれと酷く似ていた。

「分かりました、金はもらいます。俺の権利ですからね。でも“そっち”は兄さんが強制できることじゃない」

 そう言って、突然日高は陽の左腕を掴み、肘までシャツを捲り上げる。

 

「これで縛れるのは、夏だけだ」

 

 そこにあったのは、白い皮膚に無残に浮かぶ傷痕だった。

 

 

 ガシャン、と乱暴に玄関の戸が閉められる音がして、日高は小さく笑う。
 あの細腕で、よくああも激しい音が立てられたものだと。

「…ずいぶん、良くなったんだな」

 まだ日高があの家にいた頃。年に数度、家に帰るたびに小さくなってゆくように見えた兄は、この4年で少したくましくなったように見えた。当然、手足は華奢なままだし、女のように細い体はそのままだったが、内面のしたたかさが外面にも現れているような、そんな気がした。
 ついさっき触れた兄の手首を思い出し、日高は掴んだ方の手のひらを見る。
 そして、ぎゅっとその手を握り、目を閉じた。

 

「……会いたくもない」

 

 そう、声に出して言ったのかそれとも心の中で思っただけなのか、日高には分からなかった。

 

 




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