「好きです。付き合ってください」

 なんて陳腐で空虚な台詞だろうと心の中で嘲りながら、海老原は表面上は真摯にしか見えないような表情をその顔に乗せた。
 そんな海老原の内心に気付くことなく、目の前にいる崎谷航という男は馬鹿正直にその困惑振りを顔に出す。その様子に、海老原は己はいつから感情を表に出すことをやめたんだろうかと遠い昔を思い出そうとして、やめた。
 昔を思い出せば、そこにはいつも明るい笑い声で自分を慰めてくれた幼女の顔があって、その子供の顔が脳裏に浮かぶ時だけ海老原は自分の感情がコントロールできなくなる。

 目の前の男にだけはそんな自分を晒す訳には絶対にいかないのだと、海老原は殊更空虚な笑みをその顔に乗せて口を開いた。

「ああ、自己紹介がまだだった。俺は海老原脩一。理学部物理学科の1年」

 そう言うと、航はポカンとしか言いようのない顔で海老原を見つめ返してきて、そろそろこの状況にも飽きたと思った海老原は航の顔の前で手を何度か振った。

「…俺は、名前は崎谷航で…生物工学科の1年…」

 どこかまだ夢うつつな感じの航に、海老原は口だけを笑みの形にして温度のない視線を向ける。そして、そういえば前にもこんな表情をしていたかと、入学式の時を思い出した。
 あの時、航は何故か顔は壇上を向いているのに心ここにあらずという双眸をしていて、その不自然としか言いようのない表情に海老原は一瞬だけ息を呑んだのだ。だが、たとえその表情が哀れみを誘うようなものでしかなくても、そんなことに同情できるはずもなく、ただずっと感情を押し殺して航を見つめ続けていた気がする。

 ――3年。

 そう、3年の間、待ってやったのだと。

 

 

 

「こ、れ…全部海老原が作ったのか?」

 驚いたようにテーブルの上の料理を見つめる航に、海老原は「まあね」とだけ返した。
 押し畳むように誘い文句を羅列しただけで、こうも簡単に家に連れて来ることができるとは思わなかったと海老原は思う。人の良さそうな顔をしている男は本当にその顔のとおり人が良いようで、そんな自分なら考えられない性格に、海老原は心の中で嘲笑するのをやめられなかった。
 その当人である航は、海老原が作った見た目だけは美味そうな料理に目を奪われている。
 そんな航の表情や所作に1ミリも良心が動かされない自分は、もう人としてまともじゃないんだろうと思いながら、そんなことを考えているとは思えないような明るい声で口を開いた。

「いつもはこんなに作らないんだけど、まあ、一応好きな子に作るんだから気合入れないと」

「す!?…き」

 まるで小学生のような反応を返す航がおかしくて、海老原は意味ありげに笑ってやった。そんな海老原から視線を逸らしてテーブルの上に視線を戻す航も、このままごとのような状況も何もかも全部がおかしくて堪らなかった。

 

 ――なあ、崎谷航。
 お前の目の前にあるその飯は、飯なんかじゃない。
 確かにお前の胃に入り、栄養になってお前の血や筋肉になるもんもあるだろうが、それっぽっちの栄養なんざ地の果てにすっ飛ばすぐらいの毒が、米にも、水にも、魚にも、何かもに入ってる。
 不思議だよなあ。
 米や水の何万分の1の量しか入っていない白い粉が、確かにお前を死の淵へと追いやってくれる。
 そうと気付かないほど、ゆっくり。
 お前をこの世から消してくれる。
 でもな、お前は絶対に俺の妹が行ったんだろう場所には行けない。
 暗い暗い地の底にお前を連れて行ってくれるように、俺はこの3年毎日祈っていたから。
 俺が持っていた何もかもを捨てて、
 お前を殺すことだけを考えていたのと同じぐらいの、強さで。

 


「あ、のさ」

 ――不意に聞こえてきた声に、少し驚いた。
 だが視線を合わせれば、けして己の考えていたことを分かってはいないはずの眼がそこにはあって、海老原はやはり口を笑みの形にして「ん?」と聞いた。

「あの告白…冗談、だよな?」

 その台詞に、海老原はそういえば俺はこの男に告白したんだったと、心の中で独り言ちた。
 あまりに‘手段’にしか過ぎないそれに、自分がつい数時間前に好きだと言ったことすら忘れていた。

「本気だよ」

 そんなことは微塵も感じさせないような真剣な顔で、海老原はそう言った。

「入学式で見かけた時から気になってたんだ」

「…そんな大層な見てくれじゃないんだけど」

 思いのほかアッサリとした答えに、どうやら目の前の男がその顔立ちほどには抜けていないことが分かる。
 だが、すぐに信じるだろうとは海老原も思っていなかった。
 というより、‘長い期間’が海老原には必要なのだ。じわじわと、けれど確実に航の命を殺ぎ落としていける、3年ほどの長い期間が。
 その長い期間を航と過ごして行くためには、友人という間柄では難しいということを海老原は知っていた。
 高校でも、そして大学に入ってからも、自分から友人というものを作ろうとはせず、そしてたとえ誰かに望まれることがあっても深い関係にはなろうとはけしてしない。
 海老原が知っている航と長い付き合いのある人間など、どこの誰とも分からない一人の女だけだった。それも、別に頻繁に顔を合わせているというのではなく、年に数度、手紙を交わすぐらいの。
 航のことを知ろうと近づいた航と同じ高校の女にそのことを聞いた時には、酷く好都合だと思った。
 その手紙の女のことを詳しく聞いても航は微笑むだけで何も答えようとはしなかったようだが、ただ、「世話になった人だ」とだけは言っていたらしい。母子家庭で育った航の面倒を、小さい頃見てくれた女なのだと。
 その時はさすがに笑いが漏れた。
 航を取り巻く何もかもが自分に都合が良かった。
 母親は中2の時に飲んだくれて死に、それから親戚の家を転々とした航は大学進学を機に体よく追い出され、3月から彼らとは音信不通で。
 そして、連絡を取り合うような友人もおらず、当然のように恋人がいるわけでもない。
 そんな人間を強引に己の傍に置いたところで、不自然に思うのは大学の級友たちぐらいだ。その級友たちは、当然海老原と航の過去の繋がりなど知るわけもなく。
 たとえこれから数年後に航が死んだところで、航の為に葬式を出そうとする人間一人いない。



 それはまるで、崎谷航という男の命を己の手の内におさめることができるのだと、名も知らぬ絶対的な存在から囁かれているような。



 そう思った途端、ゾクリと背筋を走るものがあった。
 歓喜か。
 それとも、畏れか。
 もしかしたら、色々なものに背いた海老原への戒めでもあったのかもしれない。航の幸せとは決して言えなかった境遇に同情一つできない、歪みきってしまった自分への。
 だが、海老原は、そんな戒めが効くような良心などとうに捨てたのだ。
 たった一人の妹を喪って、捨てられないものなど海老原にはもう何もなかった。

「顔じゃないよ、崎谷の好きなとこ」

 ――その妹を喪わせた人間を、この世から葬り去る為なら、何だってする。

「分からない、って顔してるな」

「…そりゃあ、ね」

 見てくれだけの優しさや、穏やかさも、

「なんつーかさあ、体中から溢れる被虐オーラっつーの?俺完全なSだからさ、そーゆー人間見るとヤりたくてたまんなくなるんだよ」

 どこか気違いじみた台詞も、表情も、何もかもを使って、

「崎谷って、ぜってぇイイ顔して啼いてくれると思うんだよなあ」

 

 

 この男を、あの昏い川の底に沈めてやる。

 

 

 




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