砒素。
 元素記号As、原子番号33の、半金属元素。
 砒素化合物として亜ヒ酸ナトリウム、酸化砒素等。
 その毒性は非常に強く、成人の致死量はおよそ200mg足らず。

 

「朝飯作るけど、もう用意できたか?」

 フライパンを抱えながら航の部屋の前でそう声をかけると、部屋の中から「今行く」という声がした。その声を聞いて、海老原は朝食を作っていたキッチンへと戻る。そこからは自分が作った朝食のいい香りがしていて、海老原はさっさと作ってしまおうと止めておいたガスの火をもう一度つけた。

 今日で、海老原と航が一緒に暮らし始めてちょうど1ヶ月が経った。
 最初は何かを諦めたように暮らしていた航も、数日経つと思いのほか暮らしが快適なことに気付いたのかその表情が段々と普段のそれに戻って行き、海老原は湧き上がる暗い喜びを隠すのに相当な労力を要した。
 だが、それも仕方がないだろう。
 この3年、海老原の頭の中をずっと占めていた男が目の前にいて、そしてもう既に1ヶ月という期間、海老原の料理を毎日口にしているのだから。
 一口、一口、航が料理を口にする度に、海老原は何時にない笑みをその顔に浮かべる。
 命を殺ぐものでしかない米や肉や野菜が航の喉の奥に消える度、震えるほどの歓喜が海老原を襲ってどうしようもなかった。
 だが、海老原のそれは航にとってあまり見慣れないもののようで、航は時折じっとそんな海老原を見つめていることがある。
 その時の航の双眸は別に何の力も込められていない、およそ感情のないただの視線でしかないのだが、その双眸に海老原は分かってはいてもつい目を見開いてしまうことがあった。
 その、あまりに何もかもが希薄な視線に。
 ――そう、崎谷航という人間は、18という年齢にありがちな軽薄さも、18という年齢にそぐわない堅苦しさもどちらも持っていない男だった。
 およそ2ヶ月ほどの付き合いで分かった航という人間の人となりは、人が良く、そして周囲から埋没することはあってもけして突出することはないということ。それは航の外貌や性格を考えれば当たり前なのかもしれないが、それでもどうにか「人と違う」ことを求めようとする人間の本質から悉く逆行しているようにしか見えなかった。
 日々を生きるのでなく、ただ日々を‘流れている’だけのような。

 

 まあ、別にそんな男の性質などどうでもいいと、海老原はキッチンから顔を出して、居間でテレビを見ていた航に声をかけた。

「できたぞー」

「あ、うん」

 海老原の方を振り向いた航の顔は、ひどく柔らかい、そして安心しきっているような表情だった。
 そんな航に海老原はニコリと似たような笑みを返してからキッチンに戻り、そしてその笑みとは似てもつかない暗い笑いを零した。

 航からは見えなかった海老原の右手には、およそ日常では見かけない青色の小瓶がある。
 この瓶に入っている白い粉の何百分の1の量で、人など簡単に殺せる。
 キリストの生まれる前から暗殺の場で大いに活躍してきたらしいこの毒は、それから2000年が経過した今でも十分己の望みを果たしてくれる。
 賢者の毒と呼ばれたこの毒が、たとえ今は愚者の毒と言って蔑まれていようが、自分がこの世の誰より憎んで、そしてあの世に行かせてやりたい男など、それで十分なのだ。
 ――3年待った。
 だから、3年かけて、殺してやる。
 やっと一緒に暮らすことができたたった一人の妹を喪わせたこの男を、何がどうなったのか分からないままに、3年後、確実にあの川の底に沈めてやる。
 それまでは、誰より優しくして、誰より甘やかそう。
 航の好きな穏やかな笑みを顔に張り付かせて、反吐の出るような甘い声で毎日「好きだ」と囁いて。
 そして。
 最後の最後、航が、あの世に行く寸前に。

 何もかも、ぶちまけてやる。

 

「じゃあ食うか」

「おー」

 いただきます、と胸の前で手を合わせ、航はトーストに小さく齧り付く。
 一緒に暮らし始めてからずっと、海老原は決して航より先に料理に手をつけることはない。まず航が食べるのをそうとは悟らせないようにしばらく見つめ、それからやっと自分の分に手をつけるのがもう日常になっていた。
 別に変な味がしないかとか、そういうことを心配している訳ではない。無味無臭のしかも微量すぎるそれは、もはや海老原ですら航のどの料理に紛れ込んでいるのか分からない。
 ただ、確認しているだけだ。
 自分が入れた毒が、確実にこの男の心臓を止めるのだということを。
 そしてそのことに、何の良心の呵責もない自分を。

 ふと、そんな海老原に航が小さく笑みを浮かべた。
 海老原は当然のように、そんな航に穏やかな笑みを返してやる。
 心の中で、普通の人間ならできないような酷薄な笑みを浮かべている自分を想像しながら、表面には、どこまでも穏やかで優しそうな笑みを。

 そして、ああ、一つはもうクリアしたかな、と内心独り言ちた。

 

 

 お前は、俺の妹を俺から奪った。
 俺の心のよりどころだった、大切な妹を。

 だから、誰もいないお前のよりどころに俺がなってやるよ。
 崎谷、お前はもう俺に惹かれているんだろう?
 いつもは空間を彷徨っているだけのその眼は、俺を見るときだけうっすら色を持つんだから。
 まあ当たり前か。
 俺がそう仕向けたんだ。

 優しくして、甘やかして、そして、溺れさせるために。

 

 

 それから、あの時の妹の身体と同じぐらい冷たい眼で、見下ろしてやるために。

 

 

 

 




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