ダブル・プラトニック・スゥイサイド

 





 この世の誰より愛した男が、この世の誰より憎かった。
 憎くて、憎くて。殺してやりたいほど、憎くてたまらなくて。
 なのに、どうしようもなく、愛しかった。
 そして、愛しいと思う自分が、この世の誰より厭わしかった。

 


 


 

 航のフォークを持つ手の動きがもうずっと止まっている。
 その視線はずっと皿の上に向けられているのに、皿の上にあるサラダにはほとんど手がつけられておらず、海老原は堪らず口を開いた。

「航?何ぼーっとしてんだ?」

「へ?…あ、なんでもない」

 そう言って航は顔にゆるい笑みを浮かべる。
 それが航が何かを誤魔化す時の笑みだと知っている海老原は、一つ溜息をついて航の額を指で弾いた。

「ほら、冷めるから早く食べろ」

「うん」

 そう頷いて、航はフォークにレタスを一枚乗せ、ゆっくりと口に運ぶ。
 どうせなら何枚か重ねてぶっさせばいいのにと思うが、ここ最近の航が如実に食欲が無くなってきていることを海老原は気付いていた。
 日に日に、細くなっていく航の体。
 折れそうな手首や、どこか病的にすら思える白い首筋は、海老原に色々な感情を沸き起こらせる。そのうち一つの感情だけはどうにか抑えようと海老原は口を開いた。

「そうだ、航。お前今日講義何コマまで?」

「あーー、多分4コマかな」

「じゃあ4コマの後学食の前のベンチで待ってるから、久しぶりに外で食べよう」

「いいけど…珍しいな、海老原が外で食おうなんて」

「まあたまには。つうか、ココ、ついてる」

 唇の脇にドレッシングをつけたままの航にそう教えてやると、航はキョトンとしか言いようのない表情をして唇を指で擦った。だが、微妙に擦っている場所がずれていて、ドレッシングは未だ唇についたままだ。そのことに海老原は心の中で笑って、そして航の唇に手を伸ばした。

「あ、あんがと」

 親指でドレッシングを拭ってやると、航は恥ずかしそうにそう言った。そして己のこの表情に航が慣れていないことを知りながら、海老原は自分の親指をいやらしく舐める。そんな海老原を頬を染めるでもなく、そして目を逸らすでもなく見つめてくる航が海老原はどうしようもなく嫌いだった。
 いや、本当は違う。
 嫌いなのは航の顔ではなく、そんな航の双眸が好きだと思える海老原自身なのだ。

 



 海老原の妹が死んだのは、海老原が15、そして妹が9つの時だった。
 近くにあったサマーキャンプ場に昼から遊びに行っていた妹の里香が海老原の元に戻ってきたのは月が輝く夜遅くで、そして笑顔を振りまいて出かけて行った里香の口からは、もう息が吐き出されてはいなかった。
 何がなんだか分からず、隣に住んでいた幼馴染の芹と二人、横たわる里香の体を何度も手で擦って。
 だが、どれだけ擦っても、里香の体はけして温度を取り戻してはくれなかった。

 青白い肌はその色と同じように、ただただ冷たいままだった。
 ――呆然とその場に立ち竦んだ。
 唯一人、海老原がこの世で唯一大事だったものが二度と自分の元に戻らないという事実に、このまま妹と一緒に死なせてくれとすら思って。
 そして無意識に足はフラフラと妹が命を落とした川に向かって、後ろから誰かが何かを叫んでいる声が聞こえてはいても、聴こうとは思わなかった。

 妹の体が横たえられてあった場所からその川までは歩いて10分もかからなくて、海老原はもう水音でしか川とは分からないような暗い川岸でその水面を見つめた。目が暗闇に慣れるにつれて水面がはっきりと見えてきて、ここで里香が命を落としたのだと思うと、そのままその水面に飛び込んでしまいたかった。
 だが。
 カサリという物音がして、その物音の方に顔を向けると思いのほか近くに誰かがいることに気付いた。
 暗闇に慣れた目に見えたのは、海老原と同い年ぐらいの少年。
 そして、海老原と同じように食い入るように川の水面を見つめている強い双眸だった。

「…飛び込むつもりか」

 気付けば、そんな台詞が海老原の口をついていた。
 突然話しかけた海老原に全く驚いた様子でなくゆっくりと海老原を振り向いた少年は、その両目から涙を流していた。
 そして。


「あの子、俺が、殺したんだ」


 そう、言った。

 

 

 その時の少年は、海老原と同じようにもう少年とは呼べない年になって海老原の目の前にいる。
 なのに航の顔はあの時の面影のままにしか見えなくて、年を忘れて年月を過ごしてきたかのような航の顔を海老原は時々正視できなくなった。
 最初は、平気だったのだ。
 崎谷航という人間になど興味はなくて、ただ目の前の男が妹を殺した人間であるというだけで十分だった。
 そして、その人間を妹と同じ川の底に沈めるまで、僅かに残っていた良心も、他の色々なものも捨てて。
 ――なのに。

 その人間がこうもあの時のままに見えるのは、ある意味海老原と同じように何もかもを「あの時」に置き忘れてきたせいなのだと、海老原は気付いてしまった。

 
「…もう食べないのか?」

 皿に半分以上料理を残したまま食べるのをやめた航の体は、日に日に痩せ衰えていく。
 しかしそのことを絶対に悟られまいとするかのように、航は海老原の前で食欲がないそぶりは決して見せなかった。

「あ、うん。多分昨日の夜いっぱい食べたからじゃねーかな」

 今も、そうやって笑って、色々なことを航は誤魔化す。
 この、人の良さそうな顔をした柔和な男が、海老原が思っている以上に嘘をつくのが巧いかもしれないと思うのはこういう時だ。
 だがそれは海老原とはまるで違う、どこまでも優しいとしか言いようのない嘘で。

「なあ、航」

「ん?」

「体重…まだ元に戻ってないのか」

 フォークを置き、航の目を見つめながら海老原はそう聞いた。
 この問いが航を困らせるだけだと知りながら、海老原は聞かずにはいられない。ここ1ヶ月、いつもの倍に近い量を無理やりにでも航に食べさせているはずなのに、航の体重は元に戻るどころかむしろ減ってさえいるように思える。

 ここずっと、‘何も入ってはいない’のに。

「どうなんだ?」

「え、あ…た、多分戻ったと思うぞ?体重なんてそう頻繁に量んねえから何キロとかはわかんねーけど」

 ――嘘をつけ。
 そう内心呟いて、海老原は椅子から立ち上がった。

「…そこにあるから、今乗ってみろ」

「え、海老原、まじ後でいいって。ほら、お前まだ食い終わってねーし」

「いいから早く乗れ」

 腕をぐいと掴み、座ったままの航の体を強引に椅子から引き剥がす。掴んだ腕の細さと持ち上げた時の身体の軽さに、海老原は一瞬息を呑んでしまうほどだった。
 そして。

「……減ってるだろ、航?」

 航を乗せた体重計の表示に、海老原は無意識にギリ、と奥歯をかみ締めた。

「正直に言えよ航」

 痛いだろう。そう分かってはいても、もう骨と皮しかないような航の両肩を強く掴んでしまう己を海老原は止められなかった。
 分かっている、分かっているんだと何度頭の中で繰り返したところで、こうしてまざまざと見せ付けられる現実に、海老原は明日が来ることがどうしようもなく怖いと思う。このまま時が止まってくれたらと子供の夢物語のようなことを本気で願ってしまう時すらあって、その度に愚かすぎる己を何度も詰った。

 

「大丈夫だよ、海老原」

 

 そこに、そんな穏やかな声が聞こえた。
 こんな時、航はいつもそう言って海老原の頭を撫で、抱きしめる。海老原には、どうして己の感情の機微が航に気付かれてしまうのか今でもよく分からない。だが、理由などどうだっていいと思えてしまうほど、そう言って静かに微笑んでくれる航は海老原にとって確かに救いだった。
 いつものように、堪らなくなって航の身体に両腕を回す。
 日に日に細くなっていく航の体は、抱きしめる度に余る腕の長さが増えてゆく。その事実に心臓が軋む自分をこの世の誰より嫌悪して、海老原は今だけは全てを忘れたくてそのまま深く深く航を抱きこんだ。

 

 触れた唇はやはりいつもと変わらず薄くて、その薄さに満足しきれず貪るように口づける。
 そしてシャツの中に手を差し入れて、海老原は浮いているあばら骨の一つ一つをなぞるようにゆっくりと航の肌の上を辿った。

 





 この、誰より憎くて、そして誰より愛してしまった男の肌は、どうしてこうも優しいのだろうと思いながら。

 

 

 




HOME  TOP  NEXT

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送