水面の太陽




 

 

1 -side k-


 

「ねえ、俺を殺してくれない?」

 

 風の涼しい夜だった。
 その日は珍しく大学の友達と飲んでいた。あまり顔を出さない俺に友人が業を煮やしたようで、ゼミの集まりだと騙されて顔を出してみれば飲み会だったというのが正しいが。気付けばいつもの数倍の量の酒をかっ食らうハメになっていて、トイレに行くとうそぶいて奴らから逃げた。

 7月初めの夜の風は、ぬるくも冷たくもない気持ちいい風だった。その風が心地よくて、家への夜道をいつもよりゆっくり歩いていた。かなりの量の酒を飲んでいてどうにも上手く歩けなかったというのもある。なんとか意識だけは保ちながら、あと少しで家というところまで来て、向こうのガードレールの側に何かが蹲っているのに気がついた。酔っ払いの好奇心だったのか、単に俺個人の気質だったのかは分からないが、遠目にもかなり大きな物体らしいそれに近付いてみると、人間だった。

 こういう光景はそう目にする機会はないが、過去数度あった時はいつも素通りしていた。触らぬ神に祟りなし、というやつだ。だが、倒れている人間の表情をよく見ることができるほど近付いたのがいけなかった。
 ―――ひどく綺麗な顔だった。まるで日本人ではないような目や髪の色は色素が薄くて、一瞬俺の呼吸を止めさせるには十分だった。そして、そいつはどう見ても酔っ払ってるというより泣いているような表情で――いや、つまりは泣いていた。しかも、今にも死にそうな顔で。さすがにそんな人間をほうっておくことはできずに、傍に寄って声をかけた。その人間が俺の方を見上げたのを確認してから、かろうじて持っていたくしゃくしゃのハンカチを渡そうとした俺に、その人間はそう言った。

 間違いなく、そいつは「殺して」と俺に言った。

 容赦なくその人間の鳩尾をぶん殴る。いつもなら絶対にしない暴力行為を躊躇なくやってしまっていたあたり、俺も相当酔っていたんだろう。その人間は痛みにくぐもった声をもらし、ガードレールに寄りかかっていた体が道路に倒れた。俺はそいつの襟首を掴むと、その人間の尻のことなど構わずにひきずって家まで帰った。身長の割には軽いなと思いながら、月が照らす夜道にズルズルという音が響いていた。

 

 起きたときに思ったのは、やってしまった、という後悔の念だけだった。

 もともとは、殺してなんて非常識なことを俺に言ってきたこいつが悪いんだとは思ったが、人間である限り表現の自由は誰しも保障されている。むしろ、何の罪もない人間をぶん殴り家に連れ込んだ俺の方が非常識じゃないかと気付いた俺にできるのはとにかく謝ることだけだった。だが、謝るにも床に転がっている人間は見事にぐーすか寝てしまっていて起きる気配など全くない。何度か肩を揺すってみるも反応なし。試しに声をかけようとするも、そういえば名前も知らないことに気付く。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 しょうがない。そう思った俺はメモに伝言を残し、家を出た。今日の3限だけは絶対にサボれない。学期最初の授業でたまたま最前列に座ってしまった俺の顔をあの教授は覚えてしまっていて、授業の度にやれプリントの配布やれ名簿の整理とこき使われる代わりに授業の最後に必ずコーヒーを奢ってくれる。が、その度に「絶対に俺の授業はサボるな」と脅されるように言われるので、別に何の義理もないのだがどうにも休めないのだ。このままだと絶対に遅刻だと思いながら、俺は大学まで全速力で自転車を漕いだ。

 

 結局授業には遅刻し、授業の後いつもの倍の雑務を言い渡された俺が家路に着いたのは夜7時を過ぎた頃だった。なんで助手でも院生でもない俺が4時間以上もこき使われなくちゃならないんだとは思ったが、すでにそうなって3ヶ月も経過していては文句の言い様もない。既に夕飯を作る気力さえなく、今日はレトルトにしようと思いながら部屋のドアを開けると、その先にあった光景に俺は固まった。

「な…な、な…」

 ほとんどモノのなかったはずの俺の家に、何故か大量の家具が押し込まれていた。1ヶ月4万円というボロアパートにふさわしくないやたら高級そうな家具の山。

「あ、おかえり」

 そして、昼までぐーすか寝ていた人間もそこにいた。しかも俺に挨拶までしている。今の状況が全く把握できずに玄関で固まっていると、その人間は立ち上がって突然俺の右頬の肉を引っ張った。ぐいーという擬態語がこうもはまる動作は他にはない動作だ。それに目を丸くしていると、そいつは「やっぱり気持ちいい」とワケのわからないことを言った。その声に我に返った俺は、顔を左右に振ることでその手を振り払い、キッとそいつを見据えた。

「…なんでまだ家にいる」

「一緒に住むから」

「……ハ?!」

「だって、鍵くれたじゃん」

「かっ…そ、その下のメモ見たか?家出るときは鍵閉めて、鍵はポストに入れといてくれ、って書いといただろう!」

「うん。でもまだ家出るつもりないし」

「……なら、今出てけ。今すぐこの家具もって出てけ」

「え、やだ。鍵もらったし、それに」

 そこでそいつは一旦言葉を切った。そして俺の方をじーーと見ているので、「それに何なんだ」と聞こうとしたところで、俺の思考は止まった。

「俺、あんたのこと好きんなった」

 ぶちゅーーと俺の口に軽く5秒はキスをして、そいつはそう言いくさった。いや、今のはキスじゃない。口と口がぶつかっただけだととんちんかんなことを考えながら、俺は自分の家にも関わらず今すぐここから逃げ出したかった。 








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