隣に、蜂谷以外に何人か人の気配がする。時折漏れてくる「金」であるとか「無事」であるとかの単語で、多分父方の祖父の使いなんだろうと直知には予想ができた。彼らの気配がしてから既に30分近く経過している。さすがに10億ともなると数えるのも大変なんだろうかと直知はどうでもいいことを考えたりした。

「―――終わり、か」

 無意識に、そんな言葉が口をつく。
 言って、何が終わりなのか直知自身よく分からず、だがそれでもその言葉ほど己の今の状況にふさわしいものはないと思っていた。
 コンクリートがむき出しの壁、非常口のような部屋のドア、窓一つない、暗い閉鎖空間。
 ここからやっと出ることができると確かに嬉しいはずなのに、直知の胸には大きく穴が空けられたような感触がして、それを何で埋めたらいいのかと直知は考え込む。
 大体、ここから出たくて出たくて仕方がなかったのは自分なのだ。
 なのに、何をそう思い悩む必要がある?

 

 ――あの、己を誘拐した男に、情が移ったとでも?

 

「違う!」

 ベッドに仰向けになっていた体をガバリと起こし、直知はそう叫ぶ。
 ふざけるな、と思った。
 絶対にありえない。そんなこと、‘あってはならない’。
 一度でもそう考えた自分も、そしてそう自分に思わせたその男も何もかもが直知にはおぞましくて、早く、早く俺をここから出してくれと向こうにいるだろう誰かに願った。

 だが、その願いも空しく、突然人の気配が次々になくなっていく。
 そのことに必要以上に直知は焦り、ベッドから急いで降りてドアまで走った。そしてドアをドンドンと強く叩いてはみたが向こうからは何の反応も返ってこない。
 おかしい。今日、自分と金を交換して終わりだと言っていたはずだと、直知は昨日の蜂谷の台詞を頭の中で反芻する。そして、そこでハッと気付いた。

『10億とか言わないで100億とか強請れば良かったのに』

 そう、自分はあの男に言わなかったか。
 もしそれをあの男は真に受けて、額を変えたのだとしたら。

 そんなことを蜂谷がするはずもなく、そしてそのことを直知はよく知っていたはずなのだが、如何せんこの時の直知は色々なことを考えすぎて頭に血が上っていた。

「おい蜂谷!!ふざけんな!100億なんてあのじーさんが払うとでも思ってんのかよ!?」

 聞こえているのかどうかは分からないが、とにかく直知はドアに向かって声を張り上げた。

「もう金は貰ったんだろ!金が欲しいんだったら俺が相続したら欲しいだけやるから、さっさと出せ!」

 相続するつもりもないくせに、直知はとりあえずそう言えば蜂谷が納得するだろうとそう叫んだ。だが、向こうはシーンと静まり返ったままで、向こうに蜂谷がいるのかどうかすらあやしい。

「おい蜂谷!まさかここに俺閉じ込めたままとんずらし…っっ」

 全部言い終える前にドアがガラリと横に開き、ドアをドンドン叩いていた直知はガクンと前のめりになった。だが、すぐに誰かの肩に頭がぶつかり、覚えのある骨の硬さにそれが誰なのか直知には容易に想像がつく。それでも確かめようと顔を上げようとした瞬間、物凄い力で部屋の奥に引きずり込まれ、そのままベッドの上に投げ飛ばされた。

「……ってぇ…何す…っっ!!」

 

「殺してほしいんですか」

 

「…な、に」

「……殺してやりたい、貴方を」

 恐ろしいほど鋭い眼光を直知に浴びせながら、蜂谷はそう呟いた。

「金はさっき受け取りましたよ。貴方は、もう家に向かってることになってます」

「なっ!?」

「私ね、貴方が気に入ったんですよ。貴方を手に入れることを想像したら、それだけで心の底から興奮してしまうぐらい」

「な、に言っ、て」

「できれば、この手で殺して、頭の先から足の爪の先までバリバリと食べてしまいたいぐらいなんです」

 ――思考が、正常に働かない。

「でもそうしてしまったら、貴方のこの目…見れなくなっちゃうでしょ?」

 ――目の前の男が、誰だったのかすら、すぐには思い出すことができない。

「だから、一度、逃がしてあげます」

 

 ――でも。

 

 

 


「…ア、ア…ッ!」

「いい、具合ですよ」

「ふ、ざけ……ッッ…アアッ、あ、ア」

「忘れないでくださいね?この痛みも、この快楽も」

 

 貴方の中にいるのが、私だってことも。

 

 

 

 

 

「直知、お昼食べないの?」

「…食べる」

 あの後、直知は気付けば自分の部屋のベッドの上で眠っていた。
 見上げるとほとんど泣きそうな顔をした祖母と、表情を硬くしながらもそれでも心配げな顔をしている祖父がいて、ああ、帰ってきたのかとぼんやり思ったのを直知は憶えている。
 どうやら父方の祖父の使いが直知を送ってきてくれたようだが、直知は車でもずっと眠ったままだったらしい。
 日付を見ると、あの日からちょうど二日経っていて、だが、何がどうなって帰って来れたのかなど、直知はもうどうでもよかった。
 とにかく帰ってきた。帰って来れた。それだけでいいと思った。

「もうすぐ夏休みも終わりねえ」

「…うん」

「夜は、久しぶりにお饂飩でも食べましょうね」

 そう言って祖母はニッコリと笑って、その笑みは、やはりどこまでも直知を安心させる。そんな祖母に同じように軽く笑ってみせてから、直知は静かに席を立った。

 

 

 外は、相変わらず蝉がうるさい。
 縁側に座って庭を眺めているだけで、まるで炎天下の下に一人佇んでいるような気がする。
 風は秋が近いせいか涼しく、太陽の光線も前ほど強くはない。
 ――なのに、こう感じてしまうのは。

 

 

『また、貴方を攫いに行きます』

 

 

 そう言って微笑んだあの男が残した、直知の中に燻り続ける火種のせいなのかもしれない。

 

 もう直知ですらどうにもできない、不可触の焔の。

 



 

                                                    End




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