F dur 後編


 

 長い沈黙だった。
 それは多分3分ぐらい続いていたと思う。だが、俺はその沈黙を破る言葉も、そして勇気も持っておらず、ただただテーブルの向かい側で表情をなくすマヨさんを視線の端におさめるぐらいしかできなかった。

「…穂積くんはさ、タマちゃんに受け持ってもらって何年?」

 と、静かに口を開いたマヨさんは、いきなりそんなことを聞いてきた。その意図は当然俺には分からなかったが、とりあえず答えることしかできない俺は素直に口を開いた。

「半年、です」

「じゃあ、いつから親しくなった?」

 親しい、というのがどういう関係を指すのか分からないが、もし「あれ」が皮切りなのだとすれば。

「…1ヶ月前っすかね」

 

「すごいね」

 

 それは、言葉どおりの響きを決して持っていなかった。
 まるで誰より憎たらしいとでもいうような視線で俺を見る目の前の人を、俺はただ呆然と見返すことしかできず、その視線の意味を思い遣ることなど到底無理だった。

 だがそれでも、この人が今俺に向けている視線の強さとはまた違った強さでずっと周防を見つめていたことだけは、俺にも分かっていた。

 

「俺ね、タマちゃんとの付き合いって10年なワケ。でも、いつも俺がタマちゃんを追っかけるだけで、タマちゃんが俺を見てくれたことなんて全然なかった。…君は、たった1ヶ月でタマちゃんにちゃんと見てもらえてるってのに」

「マヨさ…」

「タマちゃんは、大学の時からずっとあんな感じで、冷たいのに優しくて、でも、誰かを気にかけるとこなんて見たことなかった。俺みたいにタマちゃんに近付こうとする奴はいっぱいいたけどね」

 ――ヤバい。

「ほんと、3ヶ月ぶりに会えて嬉しかったけど、まさか隣に君みたいなガキがいるとは思わなかった」

 延々と言葉を紡ぐマヨさんの手が、テーブルだったり自分の太ももだったりを同時に叩いたり擦ったりしていて、ひどい音を紡ぐ。それはだんだんときつくなっていく言葉よりもずっと、俺の脳みそを直に揺さ振って酷い吐き気がした。

「ねえ、耳のせいって何?雑音が苦手って、そんなの誰でもそうじゃないの?」

 

 ――頼むから、右手だけでいいから、止めてくれよ。

 

「…か…ハッ…」

 胃からついさっき食べた物が逆流してくる。なんとか堪えようと口に手を当てようとしたが、それより何よりも、真っ先に耳を塞ぎたかった。

「−−−!?」

 バタバタと急いだような足音がして、誰かに腕を掴まれる。だが、耳と一緒に目も閉じていた俺にはそれが誰なのか分からなかった。
 とにかくあの耐えられない音の洪水から解放されたくて、体がガタガタ震えているのが分かってはいながら、それでも耳や目を塞がずにはいられなかった。

 ――だが。

「ツっ…!」

 バシ、と頬に鋭い痛みを感じて、閉じていた目を開ける。
 すると目の前には、不協和音を決して鳴らさないただ一人の男がいて、俺はひどく安心して思わず涙が出た。そんな俺に周防は一瞬驚いたような顔をしたが、一つ息をつくとおもむろに耳を塞いでいた俺の両手を耳から離させた。

「…大丈夫か」




 低い、静かな男の声。

 その声のあまりの心地よさに、俺はこの時、この声だけを生涯聞いていけたらと本気で願った。

 

 

「なあ…環。その子、環の何?」

 タマキ。
 初めて聞いたその名に、俺はマヨさんの方をゆっくりと振り返る。

「俺が環を好きなこと知ってただろ?なのに、10年も無視して、結果がこれ?」

 悲痛な表情をしていた。
 顔は青褪め、多分手を握りしめているのは震えているからなんだろう。一つ言葉を発する度に神経を殺いでいくような、そんな話し方だと思った。

「…磯崎。俺は、応えてやることはできない。…10年前から、ずっとだ」

 


 

 

 周防の車は、俺の家に向かっている。
 その運転が大学に向かっていたときより丁寧に感じるのは、きっと気のせいじゃないだろう。未だ頭がグラグラしているような感は否めず、だがそれでも、あの部屋で聞いたマヨさんと周防の言葉は、耳から離れてはくれない。

 ――10年。

 俺が小学校に上がったばかりの時に、周防とマヨさんは出会った。
 そして、マヨさんは、身長が130cmもなかった俺が175cmになるくらいの時間で、周防を愛し続けた。

 

 

「先生」

「…ん」

 

「アンタが好きです」

 

 

 俺は、周防を知ってまだ1ヶ月しか経っていない。
 でも、俺がこいつに捕まるのに、そんなに時間はいらなかった。
 多分あの人もそうだ。

 一瞬で囚われて、そして、後は頭の中がこいつでいっぱいになっていくだけ。

 

「俺に何も求めるなよ、穂積」

 

 キイッと、車が止まる。
 隣で周防がしている表情が何故か容易く想像できて、俺は周防を見ることなく車から降りた。

 

 ドアを閉めればすぐに発進して行った車に、どうしようもなく心臓が痛いと思った。

 

 

 

 

                                                    End.

 



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