無限音階V


 

 F dur 前編


 

「タマちゃ〜ん!」

「ゲ」

 

 そんな、一つはそりゃもう嬉しそうな声と、もう一つはそりゃもう忌々しそうな声が同時に聞こえたのは周防が通っていた大学から帰る時だった。
 何でも、周防の恩師の知り合いも俺と似たような症状らしく、もしかしたらその恩師なら俺の症状を和らげる方法を知っているかもしれないからと連れてこられたのが数時間前。だが、どうやら俺のそれは彼の知り合いとは桁が違うほど酷かったらしく、逆に「申し訳ない」と謝られてしまった。そんな初老の優しそうな先生に頭を下げられている事実そのものが耐えられず、俺はやめてくださいと本気で何度も頼み、周防はそんな俺を見て笑っていた。
 その人と別れ、キャンパスを突っ切って駐車場に向かう途中で、某有名アザラシの愛くるしい呼び名が聞こえたのだ。それに反応して「ゲ」と漏らした隣の男の声も。

 

「やっぱタマちゃんじゃん!何でこんなとこいるワケ??」

 どうやら、やはりその某有名アザラシの名前は隣の男を指しているらしい。そのことに気付いて、俺は本気でブッと吹きだした。

「…このコ誰?」

「……生徒だよ」

 クソ、と忌々しそうに煙草を吸う姿も、あまり様になっていないように見えるのは絶対にその名前のせいだ。

「おい穂積。言っておくが、俺の名前は環(タマキ)だ。タマじゃねえ」

「…何だ、そうなんすか」

 つまらん。
 俺が思ったのはそれだけだった。

「ちょっと、俺のこと忘れてない?」

「…何か用か」

「うわっ、冷たっっ!3ヶ月ぶりに会った旧友なのに!」

 その台詞に初めて周防を「タマちゃん」と呼んだ男に視線を向ける。別に何の変哲もない普通の人間だが、何故かそこはかとなく浮世離れした感じがした。

「あ、俺、マヨねー。君はタツミ君でいいのかな?」

「…穂積です」

「穂積、こいつとマトモに会話しようとすると100年かかるぞ」

「うわ、ほんと失っ礼だなータマちゃんは」

 アハハハと笑いながら周防の肩に手を乗せるこの男は、多分本当に周防と旧知の仲なんだろう。そうとしか思えない話しぶりと二人の雰囲気に入っていけない自分に気付いて、少し居た堪れなくなった。
 別に周防に友人がいるのは当たり前だし、俺の知らない誰かとの過去があるのも当然なのは分かっている。だが、それをこうも目の前で見せ付けられるのはあまり気持ちがいいものじゃないと初めて知った。
 そう思ったと同時に、キン、と耳鳴りがする。
 それに内心舌打ちをして、さっさとこの場を去るに限ると口を開いた。

「…じゃあ俺はこれで。先生、今日はありがとうございました」

「あ?送ってくぞ」

「や、大丈夫っす。んじゃ」

 そう言った途端、ガシと腕を掴まれた。え?と思って振り向くと、俺の腕を掴んでいるのはマヨと名乗った男の方で、俺は訳が分からずポカンとしてしまった。

「一緒にメシでも食わない?」

「は?いや、でも」

「いーよねタマちゃん」

 何だこの強引さはと思ったが、あれよあれよという間に駐車場に連れて行かれ、周防の車に押し込められた。何故か運転席に周防、後部座席に俺とマヨさんという座り方で、そのことに疑問を呈する暇もないまま周防は車を発進させてしまった。

 

「…あの、ここマンションにしか見えないんすけど」

「そーだよ。俺が住んでるとこ」

「メシ食いに行くんじゃ」

「俺が作るから」

 そう言ってにこっと微笑まれては、俺も引き攣った笑みを返すしかない。チンという音とともにエレベーターがマヨさんの部屋がある階に着き、エレベーターを出てすぐの部屋に3人でぞろぞろ入った。

 

 中に入って、その部屋の広さにまず驚いた。多分20畳以上あるだろうリビングと、カウンター式になっているキッチン。そしてリビングの隣の部屋に無造作に置かれている10台近くあるだろうパソコンやその周辺機器。あまりに俺の予想していた「男の一人暮らし」の部屋とはかけ離れていて、しばらく呆然としてしまった。

「…こいつはプログラマーなんだよ。しかも年収数億稼ぐな」

 そんな俺の様子に気付いたのか、周防がそう口を開く。そしてその隣にいたマヨさんは「一番好きなのは料理なんだけどねー」と言って、キッチンに向かって行った。しばらく彼の様子を見ていると、確かに料理番組ばりの手つきの良さで作業を進めていっていて、なんだか本当に不思議な人だとつくづく思った。

 

 マヨさんの作ってくれた料理をつつきながら、俺は目だけでぐるりと周りを見渡す。フローリングの上にそのまま置かれている見たこともない機種のパソコンがすぐに目に入ってきて、あんなんで大丈夫なんだろうかと心配になった。

「そういえば、何でこの子大学に連れてきてたワケ?」

 と、突然俺の話題になって、視線をマヨさんに移す。その視線は、俺が知る限り会った時から絶えず周防に注がれていて、やはり今も周防だけを見ていた。

「…ああ、ちょっとな」

「何、プライバシーとやらに関わんの?」

「まあな」

「…ふーん」

 ドキリ、とする。
 マヨさんの声のトーンが下がったのがはっきりと分かる。

「ねえ、何で大学来たの?」

 俺に視線が向けられる。
 だが、多分マヨさんの意識はずっと周防に向けられたままだ。

「おい、何でそんな気にする」

「…ちょっとした興味本位かな。タマちゃん、大学の時から面倒見いい方じゃ絶対なかったし」

「あのなあ…」

 

「俺の、耳のせいっすよ」

 

 空気に耐えられない。
 周防とマヨさんの、付き合いが長いと分かるような会話とか。
 マヨさんの、俺にだけ向けられている冷えきった声とか。

 

「耳?」

「ハイ。俺、雑音とか苦手で、それを先生の先生なら治してくれるかもって」

「…そう、タマちゃんが言ったの?」

「…?ハイ」

 

 どうしてそんな顔をするのかよく分からなかった。あまりに不自然でつい周防の方に視線をやれば、周防は煙草を吸ってくると言って立ち上がったところだった。

 しばらくすると、バタンという音がして、周防が外に出たのが分かる。一瞬入り込んできた空気は少しだけ秋の匂いがした気がした。

 

 

 



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