無限音階X


 

 D dur 前編


 

 振られようが何だろうが、日は昇ってくる。
 そして、音楽がある曜日もやってくる。
 それはもうしょうがないことだと諦めるにはまだ時間が必要だったが、それでも前に比べればマシな朝だったのかもしれない。
 音楽委員とは言っても、実際に仕事をしたのは最初の時だけで、それからは別に呼び出されることもなく普通に授業を受けられているということもあるんだろう。それが、本当に仕事がないのか、それとも周防が気をきかせているのかは分からないが、どっちにしろああいう時間は作りたくなかったのだからちょうどいい。

 

「今日はオペラを聴け。今から流すから30分聞いて、残りの20分で感想書け。で、穂積、準備室にいるから、授業終わったら全員の分まとめて持って来い」

 やりぃ、と前で小さく声がする。周防がいなくなったと同時にそいつは机の中からゲーム機を取り出し、消音でピコピコやり始めた。それはほかの生徒も同じだったようで、しばらくして流れてきたオペラのことなど忘れたかのように、隣同士こそこそ話をし始めたり、席を立って離れた場所にいる友人の元に行く奴もいたりする。
 ――物凄い不協和音。
 すぐにポケットから小型のヘッドホンを取り出し、耳につける。ヘッドホン自体にメモリカードを差し込んで音楽を聴けるこれが、最近俺は何より気に入っている。
 最初に聴こえたメロディで、今流れているオペラが何なのかはもう分かっていた。
 あの曲を聴いて感想も何もないだろうとは思ったが、多分周防自身単に授業が面倒だっただけなのかもしれない。適当にこのプリントの半分くらいを埋めれば、そこそこの点数はもらえるだろう。
 耳に聞こえるのは、有名な協奏曲。
 精神を病んだピアニストの弾くこの曲を、俺は10の頃から好きだった。

 

「…失礼します」

 コンコンと2回ノックをして音楽準備室のドアを開けると、周防はピアノの前に座っていた。
 そのピアノに、少しだけ心臓が激しく鳴り始める。ほんの数週間前にそこでシャツのボタンをはじき飛ばされたことを思い出し、同時にその時の周防の指の冷たさまで思い出した。
 ――まだ、足りない。
 やはり、多分まだ時間がいる。

「集まったか」

「ハイ。これで全部です」

「ああ、悪いな」

「いえ。それじゃ、失礼します」

「…ああ」

 くるりとドアの方に向き直り、早足で準備室を出る。バタンとドアを閉めると、俺はそのドアを背に寄りかかった。
 ――一度も、顔を見ることができなかった。
 ただ、かすかにもはや嗅ぎ慣れてしまった煙草の匂いがして、その匂いが震えそうになるほど懐かしかった。

「………ハア」

 一つ、息をつく。
 あの匂いのしない音楽室の空気を吸い込み、音を立てないようにドアから背中を離した。ふと横を向くと、秋が深いせいか既に空が赤焼けてきている。あのときとほとんど変わらない空の色にたまらなくなって、俺は逃げるようにそこから離れた。

 音楽室から出ると、廊下を挟んだ向こうに窓がある。そこから見えるのは学校の裏手にある土手で、よくそこを野球部やサッカー部の連中が走っているのが見えた。今の時間はちょうどその頃だろう。5メートルもない廊下を横切って窓から外を見ると、やはりユニフォームを着たサッカー部だろう男たちが数十人、ランニングをしているところだった。
 少し、窓を開けてみる。
 すると、走りながら談笑しているんだろう声が聞こえてきて、俺も何か部活にでも入れば良かったかと少しだけ思った。
 ――まあ、2年の秋ともなれば、もう無理に決まってるか。
 そう心の中で呟いて窓を閉じる。瞬間ビュッと冷たい風が吹いてきて、少し体が冷えた。

 

「穂積?」

 

「へ?」

 突然名前を呼ばれて振り向くと、同じクラスの笠原が立っていた。あまり人を覚えるのが得意でない俺でも知っている、学年首席で全国模試10番内の常連という恐ろしく頭のいい男だ。
 だが、その頭の割にはひどく人当たりの良さそうな顔をしていて、やわらかそうな茶色の髪と相俟って、男女問わずクラスの奴らから慕われていた。つまり、笠原はどこまでも俺とは正反対に位置しているような男だった。

「…うわ、眼鏡かけると印象かわるなあ」

 げ、と内心声が出る。
 つい窓の外を見ようと眼鏡をかけたのは失敗だった。

「…そうかもな」

「へえ。結構、意外」

「…何が?」

 ――デジャヴ。
 そう、デジャヴだ、この感覚は。どこかで、絶対に聞いたことのある会話のような気がする。

「そんな清潔そうな顔、してたんだ」

「………」

「それと…」

「ワリ、笠原。用事あるんだ。じゃあな」

 何故かは知らない。――もしかしたら、何かのデジャヴだと感じたせいなのかもしれない。だが、どっちにしろ、ここにいるのは危険な気がした。
 多分、笠原の声が俺が好む声ではなかったせいもあるんだろう。酷く低い、どこか人を追い詰めるような声色をしているように感じた。
 ――そして、多分その印象は、当たっていた。

「………っっ!?」

 グイと腕を引かれ、振り向きざまにキスされた。

「なにす…っ」

「やっぱり、慣れてる」

「な…」

 

「穂積って、男知ってるだろ?」

 

 ニヤ、と笑いながらそんなことを言われ、体中に鳥肌が立った。
 そして、そんな俺に気付いているにも関わらず俺の腕を離そうとしない笠原が、恐ろしくて仕方がなかった。

 

 



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