D dur 後編


 

「ちょ…マジ離せ…っ」

「…ふぅん…ほんと、イイ顔すんね」

 ひどく気持ちが悪い。
 頭痛がして、胃から何かがこみ上げてくる気さえする。掴まれている所から体が冷えていくように思えて、俺はとにかく手を離そうと腕を大きく振った。
 俺より少しだけ上にある笠原の視線は、教室で見たことのあるそれとは180度違う。俺が見たときはいつも穏やかな目をしていたのに、どうして今はこうも獣じみた目をしているんだろうか。

「なあ、穂積。こんなこと言われたことない?」

「…なに…をっ」

「その顔、ぐちゃぐちゃにしてみたくなるって」

 本気で息を呑んだ。
 何故かもう逃げられないと思って、そして諦めるものが何なのかも分からないまま何かを諦めようとしたとき、ガラ、と突然ドアの開く音がした。


「…その辺にしとけよ」


 ――周防だった。
 そういえば、ここは音楽室の目の前だったと今更ながら気付く。すると、不意に腕を掴まれていた感触が消えて、笠原の方に目をやるとさっきとは打って変わって、不自然なほど穏やかな表情をしていた。
 どうやら、たとえ周防でも教師には変わりはないらしい。俺はと言えばほとんど反射的に離された手を自分の方に引っ込めた。

「…失礼します」

 笠原は周防に一礼してこの場から踵を返す。笠原の後ろ姿が見えなくなるまで、俺はその背中から目を離すことができなかった。無意識に掴まれていた手を擦りながら、笠原が角を曲がるのを見張るように最後までずっと見ていた。

「穂積、とりあえず眼鏡外せ」

 その声にハッと我に返る。そしてすぐにかけていた眼鏡を外し、そのまま制服の胸ポケットに突っ込んだ。中に入れていた小型のヘッドホンに当たってカチャと乱暴な音がしたが、そんなことは今はどうでもよかった。

「す、んません」

 何となくそうは言ってみたものの、別に謝る必要はないことにすぐに気付く。だが、周防が現れなければあの後悪い方向に進んでいたのは間違いなくて、とりあえず「ありがとうございました」と首を下げた。
 そこで、そういえば…と思い当たる。
 まさか、キスされたことはバレてないよな、と。別に俺のことを振った男なのだから、俺が誰と何しようとコイツは興味もないだろうが、俺としてはそんなところなど見られたくはない。ドアが開いた音はしていないし大丈夫だろうとは思いながらも、何故かその不安は拭いきれなかった。

「…すぐ帰るのか?」

「ハ?…あ、ハイ、そうっすね。多分」

「なら暇なんだろ。付き合え」

「はぁ?…って、ちょ」

 返事をする暇もないまま手を引かれ、準備室の中に引きずりこまれる。だが、手を掴まれても今度は気味が悪くなど全くなくて、人間の体はよくできていると内心思った。

 

「お前の感想文よくできてたけど、聞いてねえだろ?」

「…すんません」

「別にいい。で、お前の頭ん中にはどれだけの曲、作曲家、演奏家、指揮者が入ってる?」

「はあ??」

「いいから答えろ」

「…さあ。数えたことないから知らないっすよ」

「ってことは数え切れないってことだな」

 それは違うだろうと思ったが、周防は既に何かに納得したように準備室の棚の方をしげしげと見つめていて、もうどうでもいいと言及するのを諦めた。
 と、周防はおもむろにCDの束を棚に入っていたダンボールから取り出し始める。見た感じCDケースにはラベルも何もついていない。何だ?と思いながら周防がそれをCDコンポに差し込むのを見ていると、部屋の四隅に設置されているスピーカーから曲が流れ始めた。

「これが誰の曲で、誰が演奏してるか分かるか?」

「……スカルラッティのソナタ、ケッヘル87番。弾いてんのは…ワイセンベルク」

 ピ、と曲が変えられる。しばらくして、周防が視線で聞いてきた。

「…シューベルトの楽興の時、3番。奏者はアルフレッド・ブレンデル」

「完璧だな。お前、バイトしないか?」

 音楽を止めて、周防はそんなことを言ってきた。何を言ってるんだと顔全体で表現してやると、さっき見えたラベルも何もついていないCDケースを渡される。

「中に入ってんのは何もかもがめちゃくちゃだ。奏者はともかくとして、作曲家もバラバラとなると俺にも限界がある。で、お前にこれに入ってるのが何なのか、さっきみたいに教えてもらいたいわけだ」

「…音楽委員の仕事っすか」

「いや、バイトだからな。時給払ってやるよ」

「……金いらないんで、家に持ち帰ってやってもいいすか」

 そう言うと、周防は口の端を軽く上げた。それは、俺が考えていることは分かってるとでも言うような笑みに見えて腹が立たないでもなかったが、かと言って文句を言う気分にもなれなかった。

「…じゃ、とりあえず何枚か持っていきます。来週の授業の後に渡せばいいっすよね」

「断る」

 突然、少し尖ったような周防の声が響いた。さっき見えた表情とはずいぶん違う声色に、表情を伺おうと視線を向けるとやはりさっきより幾分冷たい顔をしているように見えた。だが、目の前の教師の常の顔は今している表情に近い。だからなのか、別段何も思わずにそのまま周防の顔を見つめていた。

「別にいいじゃないすか…あ、盗んだりしませんよ」

「そうじゃない」

「…じゃあ何で」

 

「穂積」

 

 ひっ、と声が漏れそうだった。
 あの時、一生この声だけを聞きたいと思ったときの声と、全く同じ音。
 どうして今それを聞かなくちゃならないんだと、俺は咄嗟に両手で耳を塞いだ。

「…穂積」

「やめろ!」

 手で抑えても完全には耳は塞ぐことができない。これ以上聞くものかと、俺は小型ヘッドホンを取り出そうと胸ポケットに手をやった。だが、俺がヘッドホンを取り出すより早く周防の手が俺の手を掴んで、俺は手で耳を塞ぐことすら叶わなくなってしまった。

「……っっ、なんで?アンタ、俺を振ったんだろ?なんでこういうことできるんだよ…!」

 俺を振って、俺をああも乱暴に突き放しておいて、どうしてこんな真似ができるんだと、俺はこらえきれずに涙を零した。そして、間近にある周防の顔など見たくはなくて咄嗟に顔を伏せる。だが、目を閉じれば耳だけが敏感になってしまうことを俺は知っていたから、だから、とにかく周防にここからいなくなってほしかった。

 そうじゃなければ、俺を。
 ――俺を、今すぐに、ここじゃないどこかへと、連れていってほしかった。
 名もない何かに、それだけを願った。
 
 願ったのに。


「穂積」


 ――この声が、小さい頃に聞いた誰かのバイオリンと同じだったらよかった。
 そうしたら、俺はこの声を聞いただけで吐き気がして、きっとこの手をすぐにでも離すことができた。

 なのにどうして、この声は俺が聴いたどの音楽より綺麗で、眩暈すらするような。

 

「聞けよ、穂積」

 ガクガクと足が震えて、もう立っていることすらまともにできない。それが、さらに周防に抱き込まれるような形にさせて、思うようにならない自分の体が本気で恨めしかった。

「…まだ俺が中学のガキの頃、俺の知らない女が目の前で手首切った。そんで俺に血についた手のばしながら、愛してる、なんてほざきやがった。その女の血が壁に散って…その赤を見た時から、俺は、誰にも、どんな情も沸いてこない」

 涙が滲んでいた目が、周防の台詞に大きく見開いたのが自分でも分かった。

「磯崎も…前、似たようなことを起こした。他にも、ストーカーしてくる奴もいたし、薬使って俺の体を好きにしようとした女さえいた」

「……何、それ」

「なあ、穂積。もし俺がお前を愛せたら…愛したら。お前、幸せになれないかもしれない」

 ぐい、と伏せていた顔を上げさせられる。

「それでも、俺のもんになるか?」

 

 

「俺と、恋愛ってやつ、してみるか?」

 

  

 


 否と、答える筈がなかった。
 すると周防は少しだけ表情を歪ませて、そして、俺をきつく抱きしめた。

 今この瞬間に死んでも、多分俺は後悔しないだろうと女みたいなことを考えながら、いつのまにか震えが止んだ腕で、周防の背中に手を回した。

 

 俺の背中に回された腕も、俺が腕を回した背中も。

 なにもかもが熱いと思った。

 

 

  

                                                  End.



HOME  BACK  TOP

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送