蜘蛛切

 

 


  

 大きな物音が部屋の外でして、直知は浅い眠りから目が覚めた。ゆっくりとベッドサイドの置時計に視線を遣れば、針はまだ朝とは言えない時刻を指している。そして、ああそういえば、と直知は内心独り言ちて、そして静かに体を起こした。

 

「おや、起こしてしまいましたか」

 リビングに入ると、多分直知が来ることを予想していただろう男が一人ソファに腰掛けていた。
 今日の昼には戻ると言って男は――蜂谷は、昨日の晩どこかへ出かけていったようだが、その時から直知の部屋のドアの鍵は決して開くことはなかった。ついさっき、そのドアがそれまで閉じられていたことが信じられないほど容易く開いて、それだけで直知は蜂谷が帰ってきたのだろうことは想像できていた。
 そこまで思ったところで、ふと、自分と蜂谷以外の気配がすることに直知は気がついた。部屋を見渡してもその存在は視界には入ってこない。だが、それだけにその気配は異常に強く感じられて、直知はじいとソファに腰掛けている男を見つめた。

「・・・なんです?」

「・・・・・・別に」

 言うつもりがない、そういうことなのだろう。出会ったときから変わらないその得体の知れない笑みに、直知はくるりと踵を返してリビングを出た。
 その後姿を、蜂谷が穏やかとは言えない表情で見つめていたことを知らずに。

 

  

「どうぞ、出てください」

 直知がリビングを出て行ってから数分後、蜂谷はまるでその入り口が分からないような床下の扉を開け、中を電灯で照らした。すると中にいた人間はキッと蜂谷を睨みつけ、そして警戒心を隠すことなく床下から上へと這い出てくる。その体が全て扉から抜けたのを確認してから、蜂谷は音を立てることなくその扉を元のように閉じた。

「もう話してもいいですよ」

「………」

「本当です。今は話しても殺しません。私は嘘はつきませんよ?」

「…信じられるわけない」

「まあそうですね。でも私もこれが仕事ですので」

 クスと蜂谷は小さく笑い、そしてその人間を向かい側のソファに座るように促してから、自分も同じように腰掛けた。それから、つい3時間前に、ある人間の依頼で誘拐してきた男の顔に視線を向ける。
 さすが各界のトップクラスの人間だけが入れる高級クラブのホストだけあって、その顔は蜂谷の目からも非常に整っているように見えた。だが、そういった職にある人間は必ず持っているような、穿った仄暗い目をしていないとは思ったが。

「それで?俺はなんでこんなことされてるわけ?」

「…王楚禎氏をご存知ですか?」

 それまでは気丈に見えた男の目が、蜂谷がその名前を出した途端に一気に色を失くす。

「……あの人が、関係してるのか」

「ええ。あの方が、貴方を是非愛人として迎えたいと」

「な…っ」

 顔の色を失くし、そして言葉を失くした目の前の男は、その事実にひどく驚愕している以上に、ひどく畏怖しているように見えた。一流と呼ばれる高級クラブで働いていた、美しい男娼は。

 彼が働いている高級クラブは、ただのそれではなかった。客は全て男だけ。そして、客が望むならその全てを叶えることをサービスとする、裏の高級クラブとでも言えるかもしれない。
 目の前の男――苅田亨(カリタトオル)は、そのクラブでも指名率では常にトップの男娼だった。客が望めばその美しい顔と体で、まるでその顔に似合わないようなどんな卑猥なこともやってのける。それが、財界のエリート達の何かをひどく刺激して、彼を指名する男は後を絶たなかったらしい。
 だが、その売れっ子の男娼が先月、突然店を辞めると言い出した。オーナーの執拗かつ時には暴力的な説得にも決して応じることはなく、結局オーナーが根負けした形でつい1週間前、彼はその高級クラブを辞めた。

 その、高級男娼とでも呼べる男を、どうしても欲しいという男がいた。それが、王楚禎だった。蜂谷が調べた内容によれば、王の亨への指名は、時に月の半分にも及んだらしい。中国に本社を構える会社のトップである王は、その支社を日本に出すという理由で幾度となく東京に来ていたらしいが、周りはそれは亨に会うための言い訳だと信じて疑っていなかったようだ。

『そりゃもう、すごかったらしいぜ。苅田亨を指名しては、朝までずっとヤリっぱなし。薬使って脳みそイカれさせようとしたこともあったらしくてな、一度出入り禁止になったそうだ』

 蜂谷に「運び」を依頼した、王に亨の誘拐を直接依頼された宮路は呆れたような声でそう言っていたか。
 その時に宮路が付け加えた台詞を思い出して、蜂谷は小さく笑う。そして、顔を白くさせたままの亨に視線を遣り、容赦なく言葉を続けた。

「これから貴方をあちらへと運びます。貴方を王氏の部下に引き渡すまでが、私の仕事です」

「…っっ」

「それまでは、別の部屋を用意しますので、そちらで」

「嫌だ!」

 蜂谷が言い終える前に、亨が突然そう大声を出した。だが、それに別段驚くでもなく、蜂谷は不思議そうな目で亨を見る。すると、膝の上に乗せられていた両手が、ぎゅっときつく握られたのが見て取れた。

「頼む…、俺は、あの人のところに行くわけにはいかないんだ」

「そう言われましても、私も仕事ですからねえ」

「頼む!俺は、愛してるヤツがいる。どうしてもそいつと離れたくないんだ。だから」

 そこまで言って、亨は顔を伏せた。見ると、その体は小さく震えている。
 そんな亨に視線を向けながら、まあ知ってましたけどね、と、蜂谷は心の中で呟いた。この美しい男娼は、小学校で教師として働く年上の男に恋をして、やっとのことで、その男と恋人になれたところなのだ。

 そしてその事実が、蜂谷がこんな面倒な依頼を受けたただ一つの理由なのだから。

「――では、苅田さん」

「…何?」

 

「私の情人と3日、一緒に暮らして下さい」

 

「ど、ういう、ことだ?」

「言葉のままです。この部屋には、私と私の情人の二人で暮らしているんですよ。貴方がすることは、私の情人と3日、共に生活すること。そして、貴方がここにいる理由は、決して彼に言わないこと」

 

 ――そうしたら、貴方の願いを叶えてあげましょう。

 

 


 



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