イノセント

 

  

 それは、小さく切ない恋のお話。

 

 

―1―

 

 『 藤縞 宝 さま

   前略 元気か?

   俺は今北海道の中標津ってとこに住んでる。

   冬になると沖縄にいたことが信じられないくらい雪が降る。

   アンタのおかげで俺はこうやって雪を見ることができた。

   もし許してくれるのなら、ぜひ今度遊びに来てください。

   連絡先を下に書いとく。連絡待ってるから。

                                     古我知 蒼   』

 

「………………………ダレ?」

 仕事を終えてただいまーとリビングのドアを開けた瞬間、目に入ってきたのは人間どころか幽霊すら裸足で逃げ出すような凶悪な顔。

 宝は仕事の疲れやら家に帰って来た幸福感やらをすべて忘れ、ほとんど本能でたった今開けたリビングのドアを閉めた。そして3、2、1、と心の中で数を数え、0を呟いた瞬間全速力で玄関までの廊下を駆け抜ける。二人で暮らすなら、と清嶺が選んだやたら広い部屋のせいで、当然廊下もやたら長い。そのことを今日ばかりは恨みながら、やっと辿りついた玄関で靴を履こうとしたところでむんずと後ろから抱え上げられた。

「おかえりアナタ。帰って来たばかりだっていうのにどこいくの?」

 ドメスティックバイオレンス。

 そんな単語が宝の頭をよぎっても誰も責めはしないだろう。

「…………どうやら家を間違えたみたいで、すみません隣のオクサン。」

「ああ、そうでした、アナタもオクサンでしたね。じゃあ旦那さん今から呼んできますわ。」

「できれば呼んでほしくな」

「もう呼んでしまいました。…………つーことでおままごとは終わりだよオクサン。さっさと靴脱げ。」

「…………………ハイ。」

 わけのわからないうちに始まったおままごともどきは呆気なく終わりを告げ、宝は泣きそうな気持ちでいつもの数倍は時間をかけて靴を脱いだ。そしてトボトボと清嶺に押されるようにリビングへと入る。一体なにが清嶺にあんな般若のような顔をさせたんだとビクビクしながらも宝はリビングを見回した。

「これだよオクサン。」

 そんな宝の様子に気づいていたのか、清嶺が手に何かを持って宝の顔の前でピラピラさせた。最初はただの紙切れかと思ったが、切手が貼ってあるとなるとどうやら葉書らしい。ひょいとその葉書を清嶺の手から抜き取って文面を読む。

 ――――――驚いた。

「ダレ?」

 帰って来たときと全く同じ台詞を全く同じ顔で清嶺は言った。だが宝はそんな清嶺に気づくことなく葉書に目が釘付けになっていた。それほどその葉書の内容も、そして差出人も宝には驚きだった。

「…………すごいびっくり。つーか超懐かしいんだけど。」

「おいコラ無視すんな。」

「あ、ああゴメン。3年前かな?そんくらいに知り合ったヤツ。」

「どこで?」

「沖縄に写真撮りに行ったとき。ほら、ヨルダンから帰ってきてさ、編集のひとが休みくれたときあっただろ?あんとき。」

「…ああ、あん時か。」

 記憶の糸を手繰り寄せると、確かに3年くらい前に宝は沖縄に行くと言って2週間ほどいなかった時があった。

 思い起こせば、あの時その旅行のことでそりゃもう物凄く揉めたのだ。

 

 3年前、ヨルダンに行ったきり半年も音沙汰がなかった宝が、突然フラリと清嶺の仕事場に現れたとき、清嶺は宝の脳天に渾身の力で拳骨を落とした。聞けばヨルダンについてすぐに国内で大きな紛争が起き、通信手段がすべて途絶えてしまったらしい。もともと宝のヨルダン行きを知って烈火の如く怒っていた清嶺だったが、宝がヨルダンに行って1ヶ月ほどしてヨルダンで内紛が起こったというニュースを聞いたときには、帰ってきたら絶対カメラマンなど辞めさせてやると誓ったものだ。だがそれから1ヶ月経過しても宝からの連絡はなく、自らヨルダンへ探しに行こうと航空チケットを取ろうとすれば、現在危険地域のため渡航は禁止されていると言われ、その時期清嶺は周りの人間が3mは避けて通りたくなるほど荒れた。母親がチャンスとばかりにゴリ押しが必要な和解の席に毎回清嶺を同行させるほどには清嶺の顔は凶相と言って間違いなかった。

 だからいきなり仕事場に宝の姿を見つけたときには、清嶺の胸には怒りなのか喜びなのかもわからない、とにかく一言では言い表せないような感情が一気に沸き起こった。とりあえず一発頭を殴った後は(それでも顔を殴らないあたり清嶺の宝の顔への執着が窺える)、ここぞとばかりに人目もはばからず顔中にキスをしまくり、体中をベタベタ撫で回し、ただでさえ細い体を折れそうなくらい抱きしめた。そのせいで宝はそれから清嶺の仕事場に顔を出すたびに羞恥で死にそうな目に遭っている。

 そんな経緯があったものだから、ヨルダンから帰ってきて1週間もしないうちにまた目の届かないところへ行くという宝に清嶺は猛反対した。沖縄が危険ということはないが、半年も連絡がとれなかった宝がまた自分の傍からいなくなることが清嶺には酷く苦痛だった。

 そんな清嶺の気持ちを汲み取ったのか、宝も最初は沖縄へ行くことをやめようとしていた。だが宝が所属している出版社の担当編集者が『実は藤縞さんの風景写真も評判がいいんですよ。ですからお休みも兼ねてでいいので沖縄で何枚か写真を撮ってきて欲しいんです』などとのたまったものだから、宝はほとんど強制的に沖縄に行かざるを得なくなったのだ。

 そのことを伝えたときの清嶺の表情と行動を宝は今でも身震いとともに思い出す。本気で誰かを殺しそうなくらい凶悪な顔をしたかと思ったら、突然宝を車に連れこみ、その出版社まで普通の市道を時速100kmで走らせた。そして出版社に着いたかと思えば、恐怖で硬直していた宝をほとんど抱きかかえるようにして編集部まで行き、最初の一言が

「新野を出せ。」

 その声に反応して振り向いた宝の担当である新野正道本人は、その場で殺されるかと本気で思ったと後で語った。

 とにもかくにもその後は思い出すのも恐ろしいというか思い出したくないほど恥ずかしいというか。

「やっと帰ってきた俺の抱き枕をまた俺から離すつもりか。」

「大体休暇っつーんなら純粋な休暇にしやがれ。今回のは休暇にかこつけた仕事だろうが。」

「この間のヨルダンのことだっててめぇがちゃんと調べないでこいつを行かせるからあんなことになったんだろ。」 

 その他エトセトラエトセトラ。

 清嶺の凄みを利かせた表情と声にほとんど泣きそうになっていた新野だったが、そこは編集の意地を見せ、

「お、お、沖縄のことが終われば2週間の休暇が藤縞さんには与えられます。」

「ヨ、ヨルダンのことはすみませんでした。こちらの調査不充分で藤縞さんを危険な目に遭わせてしまいました。」

「それと、ヨル、ヨルダンの写真展がありますので当分藤縞さんは貴方と一緒にいることができると思います。」

 と、どもりながらも清嶺に言い返した。

 その内容には満足した清嶺だったが、それでもまだ言い足りないことがあるとばかりに口を開こうとしたところで、宝にふんがと口を塞がれた。ちなみにそのときの宝の顔は羞恥と怒りで耳まで真っ赤に染まっていたことを付け足しておく。

 

 と、宝が沖縄に行くまでにそんなことが繰り広げられたのだ。

「……チッ、やっぱり沖縄になんぞ行かせるんじゃなかった。」

 宝が持っている葉書を睨みつけながら清嶺は吐き捨てるように呟いた。

「帰って来たときどうも様子がおかしいと思ったらこいつと何かあったんだな?」

「んー別におれが蒼くんと何かあったってわけじゃな」

「あお、くん?」

 その表情と声に、ひっ、と宝は数歩後ずさった。

「ずいぶん仲良くなったみてーだなあ、その『あおくん』とやらと。」

「いや、だから、ちが」

「俺の知らないところで浮気しやがって…。」

「ハ!?うわ!?」

「お仕置きだよなあ、チビ。」

「ちょっと!?清嶺…っておいこら!おろせーーーー!!」

「ベッドの上に降ろしてやるよ。」

「んぎゃーーーーーーーーーーーーーー!」

 

 

 



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