『はい、矢代です』

 受話器の向こうから聞こえた弟の声に、それまで抑えていたものが一気に膨れ上がったのが自分でも分かった。
 小さな頃はまるで天使そのものだった夏の顔とは正反対の、それでいてどこか冷たい美しさを宿した弟の顔を思い出しながら、陽はギリ、と受話器をきつく握り締めた。

「夏は」

 己の名も前置きも告げず言ったその一言で、日高はすべてを悟ったようだった。だが、受話器越しでは弟がしている貌は想像すらできず、そのことが余計陽を苛つかせた。

『さあ』

「嘘つかないで、日高の家に行ったことは知ってるんだ」

『確かに一昨日来ましたよ。でもすぐ帰りましたし、その後のことは知りません』

「夏と何を話したの」

『…兄さんには関係ないでしょう』

 ギリ、と歯を噛み締める。
 夏のことが――いや、夏が日高と会いやしまいかと心配で、陽は興信所の人間に夏の行動を始終見張るよう頼んでいた。その人間から、夏が日高の家を訪れたと聞いたのが昨日の昼。それを聞いてすぐかけた夏の携帯は無機質な呼び出し音が鳴るばかりで、けして夏の声を届けてはくれなかった。
 だから、何かあったに違いないと思っていた。
 弟への憎悪で体中が染まりそうなほどに、夏は己の隣で日高にずっと焦がれていたのだから。

「ふざけるな!言った筈だ、二度と夏に会うなって!」

『ハッ、本気で言ってるんですか?会いに来たのはあっちだ、俺は何もしてない』

「嘘だね、どうせこそこそ連絡取ってたに決まってる。そうして夏を縛り付けてるんでしょ、日高は」

 そう叫ぶと、受話器越しにも弟が笑ったのが分かった。
 その笑いが、4年前にはけしてしなかったろう嘲笑そのもので、陽はひゅっと息を呑んだ。

『なあ、陽兄さん、縛り付けてるのは、俺だけじゃないだろ?』

「な…」

『貴方の左腕の傷、それは夏を縛り付けるもんじゃないのか?』

 ――そんなこと、もう何年も前から知っている。
 己の命という幾重にも張り巡らせた鎖で、夏という人間を縛り付けていることなど。
 だが、それの何がいけない?
 だって、そうしなければ。
 そうでも、しなければ。

 

「陽さん」

 

「…夏!!」

 後ろから聞こえた声に、陽は驚きながら振り返る。
 振り返った先には、己が焦がれてやまない美しい男の姿があった。
 それはつい数日前に見ていた姿と、何一つ変わらなかった。
 変わらない、筈だった。

「良かった…!戻ってきてくれたんだね」

 けれど。
 そう言って近づいた陽に見せた貌は、もう、数日前のそれではけしてなかった。

「…夏?」

 その貌に、ハッと手に持っていた携帯を耳元に戻す。だが、もはやそれは弟と繋がっておらず、聞こえてきたのはツーという耳障りな音だけだった。
 その音に、携帯を閉じてもう一度夏に目を向ける。そして、夏の目を見た途端、陽はヒクリと喉が鳴った。
 ――その目はもはや、己の所有物であるはずの人間が見せるものでは、有り得なかった。

 

「俺は、貴方から離れる」

 

「……何、言うの…今更、何を言うわけ」

「貴方は、俺といると弱くなる。…俺も、貴方といると、弱くなる」

「な、ら、二人で助け合えばいい、そうでしょ?」

 今にも泣きそうだった。
 けれど、涙は出そうになかった。夏を引き止めるためなら、涙など何時だって流せたはずなのに。
 過去にそれが必要だった時とは比べ物にならぬほど、必要な今なのに。

「…ねえ陽さん、貴方は俺のどこが好きなんです」

「全部だよ、夏の全部に決まってるじゃないか…!」

「なら、日高を好きだって俺の気持ちも、好きでいてくれるんですか」

「――な、…つ」

「…俺はもう、10年も前から日高しか好きじゃない。きっと、人として愛したのは日高だけだ。日高だけを見て、日高の言葉だけを聴いてきた」

 ――そんなこと、知っている。

「京都で日高に会って、もう、駄目だった。4年前、貴方と俺がどうにかなったように見せ掛けて日高を突き放した時から、俺の時間は止まってる」

 知ってるんだよ、夏。

「俺はずっと、日高を好きで、好きで、」

「…やめ、てよ」

「好き過ぎて、もう、どうしようもない。日高以外、見えない」

「やめろ!」

 知ってるんだ。
 だから、もう、言わないで。

「――それでも、陽さんは俺が好きなんですか?」

「夏…」

「好きじゃないでしょう?」

 ――ああ、悲しげな貌さえどうして美しい。
 ねえ、夏。
 夏は知らないだろう?
 俺が、夏が弟を誰より愛してることを知っていても、夏が欲しかったことを。

「……だから、俺はもう、貴方から、」

 

「死ぬから」

 

 夏が手に入るなら、どんなに卑怯で最低な方法でも、何度だって取れるってことも。

 


 



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