どれくらい、そうしていただろう。
 日高の家から出はしたものの、夏はどうしても日高がいる場所から離れることができずに、しばらく庭でひとり佇んでいた。体を冷やす冬の空気も、冷えすぎて感覚のなくなってゆく指先も――けして日高には会うなと言い募った陽のことさえ、忘れて。意識のすべてが、家の奥にいるだろう幼馴染に向いていた。
 ――だから、気がつくことができなかった。

「……どちら様かな?」

 夏を――いや、陽を厭うからこそ夏を憎んでいるだろう人間が、すぐ傍まで近づいていたことに。

 

「君が、日高の幼馴染か」

 笑みともつかぬ表情でそう告げた男を、夏は心から恐ろしいと思った。芸能に疎い夏でさえ知っている、葛籠春加という人間が。
 あれから、夏の表情で全てを悟ったらしい春加は、徐に夏に向かって手招きし、夏を近くの喫茶店まで連れて行った。知らず冷え切っていた指先は店内の空気に触れてさえすぐには動かすことができず、運ばれてきたコーヒーに手を伸ばすまで時間がかかった。そのままでは、カップを落としてしまいそうだったからだ。
 そして、そうこうしている内に告げられたのが、先の春加の言葉だった。

「なら君は、陽君を殺せないね」

「…え?」

「僕は一介の俳優でしかないけれど、一人の人間ぐらいなら誰にもそうと分からせることなく殺せる」

 微笑みながら言う台詞ではない、あまりに物騒な内容のそれを、春加はまるでそうと感じさせることなく軽やかに言ってのけた。その顔に浮かんでいるのは完璧な笑みで、内心を押し隠すことに長けているはずの夏でさえ、それが本物か偽物か、全く区別することができない。

「もしこれ以上日高を傷つける人間がいるのなら、僕はその人間を殺すよ。迷うことさえないだろうね」

「…っ」

「僕はね、大事なものが少ないんだ。息子と姉と、ただ一人の甥っ子。その3人だけだ」

「……陽さんも、貴方の甥ではないんですか」

「おや、知らなかったかい?彼は、日高の父の初恋の女性が産んだ子供だよ。私の姉と日高の父は政略結婚でね、死んだ陽君の母親を本当は愛していたんだそうだ。君だって幼馴染なら知っているだろう?あの男の日高への扱いを」

 確かに、知っていた。まだ幼かった頃は、どうしてだろうと考えたこともあった。だが、成長するに連れて、日高が不遇の身であるなら己が貰っても構わないだろうと、むしろ好都合だとさえ思っていた。あの父親なら、己が日高を浚っても喜びさえすれ悲しむことなどけしてないだろうと。

「よく似ているよ…陽君は彼女に。欲しいものは何が何でも取る。それが相手にとって不幸だろうと構いやしない」

「………」

「僕は、こっちに来て、毎日死んだように生きていたあの子に、何度もお前が大事だと言った。当然信じやしなかったけれどね、それでも言い続けた。――そんな時に、秋之が、あの子を犯した」

 ――ヒュッと、息を呑んだ。

「もう駄目かと思った、もうあの子は、生きられないかもしれないと。けれど、違っていた。秋之がどんなに乱暴にしても、あの子は秋之を拒みやしなかったし、むしろ酷くされることを喜んでさえいた。…まともとは思えないだろう?だから僕はあの子に尋ねたんだ、どうしてだと。そうしたら、あの子は、こう言った」

 

 酷くされればされただけ、ここにいる理由が、見つけられる。
 秋之のために、生きていればいいんだと。

 

「なあ、君が陽君を殺せないなら、君が死んでくれよ。そうすれば、秋之はやっとあの子をやさしく抱いてやれる」

 



  

 秋之は、まだ眠っている。
 それもその筈だ、東京から舞い戻ってすぐ、こうして己が求めるがまま何度も抱かせた。軋む体は、秋之が好きでそうしたわけじゃない。日高が望まなければ、秋之はきっと溺れるだけのそれをしてくれるのだろう。

 だが、それでは駄目なのだ。優しく抱かれれば、否応なしに幼馴染とのそれを思い出す。
 けれど、今となって思えばそれはあまりに可笑しい。別に夏は、いつも日高を優しく抱いていたわけではないのだ。むしろ、強姦に近い抱き方さえ好んでしていた頃もあったのだから。

「……馬鹿みてー」

 結局、秋之に求められていることを、ああしてもらうことでしか感じられないのだ。
 人として狂ってしまった己は、もう、秋之に求められなければ生きているとさえ思えない。
 確かに矢代日高という人間を失った、あの時間死んだから。

 

「ヒダカ」

 

 幼馴染の声が、聞こえた。
 縁側にいるのは、己一人の筈だ。だから、聞こえる筈がない。
 庭に見える影が、夏のものである筈がない。
 だから。

「ごめんな、夏」

「………」

「兄弟揃って、どうしようもなくて。…もう、離れていい。兄さんは、きっと死なない。あの人は俺よりずっと強かだから。それに、俺にももう構わなくていい」

「…日高」

「だから、これからどうするかはお前の自由だ。兄さんのとこに戻るならそうしていいし、兄さんから離れるならそれでもいい。でも、俺にはもう会いに来るな」

 影に向かって、以前そうしたように微笑んでやる。思い返せば、いつも己は夏にこんな笑みしか向けてやれなかったかもしれない。失うことへの恐怖が過ぎて、どこか苦しげな笑みしか。
 けれどそれでも、そうする以外、もう日高にはできなかった。
 4年前の夕暮れに、日高は全てを失くしたから。
 たとえ目の前の人間が己が渇望した幼馴染の姿形をしていても、あの夕暮れから、それはもはや日高が愛した男じゃない。
 彼は、どこにもいない。

 

「もう、痛いのは御免なんだ」

 

 

 



HOME  BACK  TOP  NEXT

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送