『おにいちゃん、大好き』

 妹がこの世からいなくなる前の晩、口の利けない妹がそう言って自分の隣で眠ったことを海老原は今でも憶えている。
 その時、二人で暮らすことができるようになってまだ1ヶ月も経っていなくて、だからこそ海老原は同い年の子供に比べて格段に痩せ細っていた妹をできる限り甘やかしてやりたいと思っていた。
 たった9歳という年齢でなにもかもを諦めた眼をしている里香があまりに可哀相で、その眼を見るたびに里香を抱きしめたりもした。

 この世に海老原と里香を産み落としただけの母親は、産んだだけで母親としての義務は果たしたとでも言うように海老原にも里香にも全く関心を示さなかった。離婚した時も、ただ小さいという理由だけで里香の親権者となることを選び、目に見えない虐待を里香に毎日強いて、そのせいで里香は全く喋ることができなくなった。
 里香が生まれたときからその面倒はほとんど海老原が見てきたようなもので、両親に顧みられなかった兄妹がその絆を深くするのはあまりに当然なことだったのに、両親が自分たちの都合だけを押し付け、二人を引き離した結果が、それだったのだ。

 里香は、本当に明るくて、よく笑う子供だったのに。

 数年ぶりに会った妹が笑うどころか声すら出せない様子に、海老原は怒りを堪えるのに精一杯で、そして、事務的なことだけを喋ってすぐにいなくなった両親の後姿を思い切り睨みつけながら、海老原は二度と里香を離さないと誓ったのだ。

 

 そんな里香が、ようやく笑えるようになった、そんなあまりに幸せな時だった。

 

『脩一くん!大変よ!』

 

 

 ――里香ちゃんが、サマーキャンプに来てた男の子に川に落とされたって。

 

 

 

 誰かが魘されている声に、目が覚めた。
 その誰かは当然一人しかいなくて、海老原は軽く身体を起こして隣に眠る航に視線を遣る。航の額にはうっすらと汗が滲んでいて、その顔は目を閉じていてさえ分かるほど悲愴に満ち溢れていた。

「ご…めん、なさ…い」

 そして、いつものように、航はそう言う。
 相変わらず眠りながら涙を流していて、海老原は指の腹でその涙を軽く拭いてやった。
 すると。

「―――っっ!」

 突然目を開けたかと思うと、航はガバリと身体を起こした。
 荒い息が吐き出される音が聞こえて、海老原は暗闇の中で身体を丸める航をじっと見つめる。

「あ、ァ、」

 航は、頭を抱えて静かに声にならない声をあげた。
 腕の隙間から見える左頬にツウと涙が流れたのが見えて、海老原は思わず航の名前を呼んだ。すると航は目を見開いて海老原の方に顔を向ける。
 その顔はそれまで眠っていた人間だとは思えないほど、あまりに蒼白だった。

「…魘されてたな」

 そんな自分の台詞に肩を震わせた航の背を、海老原は普段の自分からは想像もできないほど穏やかに撫ぜてやる。夏になると、決まって夜中にこうして飛び起きることの多い航をもう無視することができない自分が、いっそ笑えるかもしれないと海老原は思った。

 憎くて憎くて堪らないのは確かなのに、何故か時々堪らなくなってこの男を抱きしめることの多くなった自分を、過去の己自身から一体どれほど愚かだと詰られるだろうか。

「誰に、謝ってたんだ?」

 だが、それでも。

 航が毎晩のように夢で謝っているらしい相手が気にならないかと言えば嘘で、それがもしかしたら航の何かを抉ることになるだろうことを分かってはいても、海老原はそう聞かずにはいられなかった。

「…え」

「ここずっと、お前いつも「ごめんなさい」って寝言で言ってた」

 そう言った時の航は、見ている方が辛くなるほど、何もかもが苦しそうだった。
 一瞬息を呑み、それからまるで呼吸の仕方を忘れたかのように喉を震わせる航を、海老原は背中を撫ぜることで何とか宥めようとした。

 ――その時だった。

「ご、めんなさい」

「…航?」


「ごめんなさい…ほ、んとに、ごめんなさい。お、れは、何もできなかった。手を…手を掴むこともできなかった。ま、まだ9つだったのに。ご、めん。ごめんなさい、ごめんなさい…!」


 

 ――やめろ、と思った。

 そんな顔で、そんな声で、そんな言葉を紡ぐな、と。
 去年の夏も、航がうわ言のように同じ言葉を言っていたことを海老原は思い出す。そして、今年もその状態がもう1ヶ月は続いていて、きっともうずっとちゃんと眠れてはいないんだろうと思っていた。
 飛び起きるたびに、海老原が知る限り航は窓の向こうに向かって首を垂れていた。
 そして小さな小さな声で何度も「ごめんなさい」と繰り返して、それが窓の外の何に向けられているのだろうとずっと考えていたのだ。
 ――だが。
 知りたく、なかった。
 航が、目を見開いたまま涙を流して紡ぐその言葉が、何より大切だった妹へのものだったなどと、決して知りたくなかった。
 血も涙もない人殺し。
 ただ、それだけでよかった。

「ご、めんなさい。…ほんとに、ごめん。ごめん、なさい」

「――っっ」

 海老原の腕に縋り、なのに航の目はけして海老原を見てはいない。
 ただただ同じ言葉を繰り返し、そしてとめどなく涙を流すだけ。

 

 

 目の前の男は、妹を殺した男。
 己がこの世で唯一大事だった里香を、自分から奪った男。

 

 ――そう何度己に言い聞かせたところで、もう駄目だった。

 

 自分の腕の中でうわ言のように同じ言葉を繰り返す人間はあまりに哀れで、

 

 

 あまりに愛しかった。

 

 

 




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