それは、突然だった。
 じわりじわりと、音もなく‘そう’なるのだと思っていた。
 本人ですら何がどうなっているのか分からないくらいの遅さで、けれど気付けば全てが終わっているだろうと。



「…いっ…て」

 思わず漏れたのだろう声に、航が焦ったように口に手を当てる。
 暗闇に慣れた目は航のする動作の全てが見えていて、そしてそれまで洗面所の明かりの下にいた航は、目を開けて航を見ている海老原に気付いていない。それから航は音を立てないように静かに布団の中に戻り、時折声を詰まらせながら体をベッドに横たえた。
 体を横向きにして枕に頭をつけるその瞬間まで、航の目は何かに耐えるようにきつく閉じられたままだった。

 ――吐いていた。
 紛れもなく、洗面所から漏れ聞こえてきたのは、航の嘔吐しているだろう音だった。
 そして、もしかしたら、これが最初ではないのかもしれない。
 海老原に気付かれないようにほとんど音を立てずにベッドから抜け出し、そしてベッドへと戻ってくるその動作は、それが初めてではないことを教えてくれている気がした。
 今も、多分さっきと同じように、その右手は航のみぞおちの辺りを絶えず擦っているだろう。
 かすかに感じる毛布の動きにそれを確信して、海老原は後ろから航を抱え込んだ。

「……っっ、え、びはら?」

「何」

「お、起きてたのか?あ、もしかして、起こした?」

「…さあな」

 答えともとれない曖昧な返事をして、海老原は航の首筋に顔を埋め、目を閉じる。
 外気に触れた航の肌は少し冷たくて、何故か酷く心地よかった。



 何を、やっているんだろうと思った。
 今己が抱きしめている相手は、一体誰だと思っているんだと。
 そう思ってはいるのに、抱きしめる腕を外そうとは思えなかった。
 少しずつ、けれど確実に航の体が蝕まれていく様を目の当たりにして、どうしても腕の中の体温を離せなかった。



「…なあ、航」

「んー?」

「今日、芹と何話してたんだ?」

 抱きしめていた体が途端強張るのを感じ取って、それから芹が急に訪ねてきた今日の昼を海老原は思い出した。

 

 海老原がゴミ袋を買ってコンビニから戻ると、居間にいたはずの航も芹もそこにはいなかった。どこだと思って洗面所の方に行けば、開けっ放しのドアから見えたのは芹の後姿。そして、鏡の前に立っている航は芹に抱きしめられているようにしか見えなかった。

「…何してる?」

 ――多分、自分ですら驚くほど低い声が出た。
 今日が初対面のはずの二人が何かある訳は絶対にないのに、そしてそのことをちゃんと頭では分かっていたのに、感情が追いつかなかった。
 己の異様さに気付いたのは、芹が海老原を振り向いた時。
 十数年も見慣れた顔を目の前に、どうしてこの幼馴染を疑ってしまったのかと、ほんの数秒前の自分に愕然とした。
 そんな海老原に芹はお世辞にも人がいいとは言えない笑みを浮かべ、そして「このコ、抱き心地すっげぇいいのな」と言ってニヤリと口角を上げた。

「ま、お前がそんな顔するから離してやるよ」

 そう茶化して、パッと航から両手を離す。その両手の隙間から見えた航は海老原とは逆の方を向いたままで。
 何故こっちを見ないのかとわけもなく腹が立って、海老原は航の背中を睨むように見つめた。

「じゃあ邪魔者は帰るわ」

 芹の声に海老原はハッと我に返る。そのまま芹に視線を移すと、芹は海老原の横を通り過ぎて部屋から出て行った。

 

 ――あの子、お前を愛してるよ。

 

 すれ違いざま、海老原にだけ聞こえるぐらいの声で、そう呟いて。

 

 

 

 芹との会話の内容を航に聞いて、一体己はどうするつもりなのだろうと海老原は思った。
 いや、どうするつもりもないのだ。
 ただ、聞きたいだけで。

 ――そこまで考えて、何を?と思った。

 何を、聞きたいんだろう、自分は。
 いや、何と、航に答えて欲しいんだろう。



 まさか、芹に言われたあの言葉を、航自身の口から聞きたいだなんて馬鹿なことを考えているんだろうか。



「…何も話してないよ」

 ――と、そこに聞こえてきた航の声に海老原は我に返った。
 そして航の台詞を頭の中で反芻して、一つ溜息をつく。一体自分は何を考えていたんだと本気で馬鹿らしくなって、海老原は航から体を離して仰向けになった。

「お休み」

 そして、そう言って目を瞑る。
 隣で怪訝そうに自分を見ているだろう航が予想できたが、海老原はもう何も考えたくなかった。




 あのまま航を抱きしめていれば、きっと自分はとんでもないことを言い出しただろう。
 己の腕に馴染む細い身体は、時が経てば経つほど海老原の中でどんどんその色を変えてゆくのだから。

 それは、もう色づく場所など残っていないはずだった、海老原の心をどこまでも侵蝕して。
 そう、ただただ黒く染まって、目の前の男への憎しみだけで生きてきた、まともじゃない自分の心を。

 

 それは、自分が自分でなくなっていくような、そんな感覚だ。


 温かくて、そして、どこまでも哀しい。

 

 

 




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