タカタ君の非日常的日常D









民法第752条

夫婦は同居し、互に協力し扶助しなければならない。

 


 

「………」

 パワーアップ。
 そんな単語が数人の頭の中を何度も過ぎった。

「うっわ、サイッコーにいい趣味だな」

 そこに隣でそんなことをほざく男が一人。だがその声色と表情からして、多分数人と似たようなことを思ってはいるんだろうが。
 それでも、数人と違ってそんなことを口にできる以上、やはり人間余裕がある方が人生を楽しく送れるんだろうかと数人は自分でも訳の分からないことを考えた。

 4月1日。世間的にはエイプリルフールのこの日、数人と一居は土屋家から例の新居へ引越しをした。普通ならその1週間前には引越しの日を知っているはずの数人がその事実を知ったのは、引越し開始の5分前。ああ、この感覚何かと似てるなあ…と冴子の運転する車に揺られながら思い返せば、それが数人が土屋家に嫁いだ日のことだったと思い出して土屋家からマンションまでのおおよそ20分で数人はどーんと落ち込んだ。
 そして着いた先はつい数週間前に恐怖体験をさせられた新居。さすがにもう垂れ幕はかかっていなかったが、前は白だったはずのホールの内壁が全て花柄のピンク一色になっていて、数人はあの時よりさらに顔を青くした。
 別に、壁がピンクだろうが床が大理石だろうがその辺に薔薇の匂いが漂っていようが数人はどうでもいい。好みは人それぞれだ。
 だが、そこに自分が住まなくてはならないとなると、一変、数人にとっては人生の大事件だ。

「それじゃ、私はこれで帰るわね。時々顔見せにくるのよ〜」

「ああ」

「……ハイ」

 ニコニコと優雅に微笑みながら、冴子はぶうんと車を発進させた。その笑みに何故かマンションの内壁の花柄を思い出して、そういえばあの人だったらこのマンションがよく似合うだろうなあと数人は思った。

 

 エレベーターで上へ上がり、廊下に出るとそこは秘密の薔薇園だった。
 廊下を歩く度にぽわわんと漂う芳香は、数人が過去嗅いだことのあるどの香りでもない。かと言って、それが珍しいものだったかと言えばそうではない。廊下に漂うのはジャスミンの香りだったのだが、数人が過去に嗅いだことのある花の香りが温泉気分入浴剤のそれしかなかったせいだ。
 何はともあれ、とりあえずいい匂いなんだから別にいいやと開き直り、数人は一居の後に続いて部屋の中に入った。と、いきなり前にいた一居が声を張り上げた。

「なんで荷解きされてねえんだ!?」

「へ?…おわっっ!?何だよこのダンボールの数!?」

 驚いている所が全くかみ合っていない。
 天高く積み上げられているダンボールはどうやら全て数人と一居のものらしい。そういえば、土屋家から何かを運び出している様子は全くなかったな…と数人は今になってやっと気づいた。そしてぐるりと周りを見渡してみると、リビングにはちゃんとあらかたの物が揃っている。キッチンカウンターの奥に見える食器戸棚にも既に中身が入っているし、その前にはテーブルと椅子もセットされてある。
 ――と、すると。

「おい!ま、まさか、これって俺とお前の部屋の家財道具か!?」

 そう数人が叫ぶと、何を今更言ってるんだと一居は本気で呆れた顔をした。そして、家財道具って言い方は間違ってるぜーとも思うが、それを教えてやるほど一居は優しい性格はしていない。

「…つーか、ダリィから明日業者呼ぶわ」

「はあ??じゃあ今日どこで寝るんだよ」

「適当にソファで寝ろ。俺は女んとこ行くわ。じゃーな」

「ハ!?」

 が、数人が文句を言う暇もなく一居は後ろ手に手を振りながら部屋から出て行ってしまった。

 

「…マジかよ」

 数人は呆然とダンボールの山を見つめるしかなかった。
 世間並みの感覚は一応持ち合わせている(つもりの)数人である。さすがにこれから住もうと言う部屋にダンボールが積み重ねられてあるまま一晩を越す気には到底なれない。
 とりあえず数人がダンボールの数を数えてみると、その数12個。数字だけ見れば大した数でもなさそうだが、大きさが尋常ではない。だが、時計を見るとまだ針は午前11時を指している。
 ――なんとかなりそうだな。
 そう思った数人はふうと一つ深呼吸してから腕まくりをし、まず一番大きいダンボールから取り掛かった。

 

 

 

「え、一居帰るの?」

「ああ」

「泊まってくって言ってなかった?」

 軽く非難の色がこもった声が後ろから聞こえてくる。だが、何故か急がなければならないような気になっていた一居は、意に介さないように靴を履き、ゆっくりと立ち上がった。

「じゃ」

 そして振り返ってそれだけを口にする。振り返った先にあった女の顔が不満そうに歪められていたのが分かったが、それでも一居は何か言う気にはなれなかった。

「…ねえ一居。私のこと好き?」

 そう彼女が聞くと、一居はニコリと笑みを浮かべた。その顔は誰もが賞賛したくなるほど綺麗で、見慣れたはずの彼女もつい赤面してしまう。
 そもそも付き合うきっかけも彼女が一居の顔に一目惚れしたからだったが、告白してすぐにOKの返事を貰った時には彼女は天にも昇るような気持ちだった。だが、付き合っているはずの一居は、一週間に一度会えればいい方で、電話もするのはいつも彼女から。1ヶ月が経ってその状態に不満が募りだしてきた時に、珍しく一居の方から「泊まらせて」と電話が来たのだ。普段なら絶対にない一居からの電話とお願いに喜べば、なぜか来て2時間も経たないうちに帰ると言う一居に、彼女は堪らず絶対に自分は言わないだろうと思っていた陳腐な台詞が口をついてしまった。

 そんな彼女は、一居が少々…いや、思いっ切り‘イイ性格’をしていることを知らなかった。

「好きだよ」

「なら…!」

「セックスすんのは。何か話す必要もねえし」

 ――絶句、である。

「ワリ、これで終わりにしようぜ。じゃーな」

 そう言うと、一居はドアを開けて出て行った。少ししてバタンとドアが閉じられる音がして、彼女は呆然と立ち尽くした。
 おおよそ知り合って3ヶ月、付き合い始めて1ヶ月になるが、彼女は一居が‘ああいう’性格をしていることを全く知らなかった。最後の最後でその片鱗を見せられたのは、彼女にとって良かったのか悪かったのか。

 だが、何故か憑き物が落ちたような気になって、彼女は一居が食べた食器の後片付けを始めた。
 ガチャガチャと食器を洗っていくと、脳みそが空っぽになる気がして心地良いと思った。

 

 

 

 

 なんだかんだで、一居がマンションに戻ってきたのは出て行ってから4時間ほど経った頃だった。
 本当なら別にあのまま女の家に泊まっていても構わなかったはずなのに、一居は何故か無性に気になって戻ってきてしまったのだ。しかも、女と別れるというオプションつきで。

「…なんだかな…」

 どうにも急ぐとか気になるとかいうような感覚に覚えのなかった一居は、初めてのそれらに戸惑うしかない。上昇するエレベーターの中で一つ溜息をついて、一居はぼそりとそう呟いた。

 ――だが、部屋の中に入ってすぐ、帰って来なければよかったと一居は本気で後悔した。
 見渡す限りのダンボールの山、山、山。開けっ放しのリビングのドアから見えたそれに、リビングの中がどうなっているのか一居には容易く想像できた。――そして。

「ぎゃっっ!?おいこらお前、倒れてくんな!!」

 何かに果敢に立ち向かっているらしい数人の叫び声。その相手はチェストかテレビか本棚か。
 はあと一居は深い溜息が出る。が、戻ってきちまったもんはしょうがねえと、ダンボールの山を掻き分けてリビングの中に足を踏み入れた。
 しかし、ダンボールの山を抜けてみると、そこは思っていたより遥かにマシな状態だった。
 この部屋にはリビングにダイニングにキッチン、そして洗面所の他に3室あるが、一つは趣味の悪すぎる丸型のどでかいベッドが置いてある寝室、そしてもう二つが一居と数人の私室ということになっている。とりあえず手前が一居、奥が数人ということになったのだが、その手前の一居の部屋は既にあらかたの物が整っている状態になっていた。

「…へえ。思ったより使えるな、アイツ」

 傲岸不遜な物言いが許されるのは、それが一居だからである。これを数人が言ったものなら、家族、友人、果ては親類縁者からすらお怒りの言葉を受けるだろう。が、そもそも数人は死んでもそんな台詞を言う機会に恵まれないだろうが。

「フウー…、俺はやったぜ…。がははは!!本棚なんぞ楽勝じゃ!」

 そこに聞こえてきた台詞に一居はブッと噴き出す。どうやら数人が格闘していた相手は本棚だったらしい。そして、「おりゃ」だの「うりゃ」だの言いながらこっちにやってくる数人の声が聞こえる。存在そのものが冗談だとでも言いたくなるような掛け声だと思いながら、一居は数人の死角になる場所に移動した。

 

 リビングに現れた数人は、その斜め後ろに一居がいることも知らず相変わらず独り言のオンパレードだった。

「おお、今度はダンボールだな。…あ、そうだゴミ出しの曜日確認しねえと…いや、とりあえずダンボールはまとめねえとな」

 ぶつぶつ言いながら数人はとりあえず手近にあるダンボールから畳み始める。

「…しっかし、ダンボールってのは便利だよなあ…あんなにでっかいもんが入っててもこんなにコンパクトにまとまるんだから…誰が発明したんだろうなあ…」

 数人は一個目のダンボールをコンパクトと表現するのはおこがましいぐらい大きく畳み、壁に立てかけた。それからすぐ、隣にあったダンボールにとりかかる。だが、フンフンと鼻歌でも歌いだしそうに二つ目のダンボールに取り掛かっている数人の横で、ついさっき畳んだダンボールが今にも元に戻りそうなのが一居には見て取れた。作業しているときから「あれじゃ駄目だろう」とは思っていたが、折り畳んだダンボール紙が跳ね上がらないようにするために括ったビニール紐が緩すぎたのである。
 ぎ、ぎ、と静かにビニール紐は緩み出し、折り畳んだダンボール紙は今にも外れそうになっている。
 …しょうがねえな。
 そう心の中で独り言ち、一居がダンボールを押さえようと一歩前に足を踏み出した途端、バチンとダンボールが跳ね返った。

「ぎゃっっ!!」

 そして、同時にそんな叫び声を上げて数人が横に勢いよく倒れこむ。跳ね返ったダンボールの直撃をもろに浴びたらしい。そんなギャグ漫画のようなことが実際にあっていいのかと思わずにはいられないような現実が一居の目の前で起こり、ここまで来ると一居にとって数人は奇蹟の人に近かった。

「な、なんだ!?」

 そう言いながら数人はきょろきょろと周りを見渡す。なんと己に起きた事態の理由に気付いていないようだ。あまりの不憫さに、さすがの一居も声をかけずにはいられなかった。

「おい」

「へ?…うわっ、いっちゃん!?」

「い…」

 一居は絶句した。後にも先にも一居が絶句したのはこの一度だけである。

「お前、いつの間にいたんだよ」

 そんな一居に気付いていない数人は、そう言ってよいこらせと立ち上がる。そこでハッと我に返った一居は、ついさっきまで数人を不憫に思っていたことなどすっかり忘れ、おどろおどろしい声を出した。

「…てめぇ…それ俺のことじゃねーだろうな…」

「は?それって?」

 …これがわざとだったら大したタマである。が、もちろん数人にそんな脳みそがあるはずもない。「それって?」と聞き返すことで、一居に自分から「いっちゃん」という単語を言わせるような台詞を故意に吐ける頭など。
 そのことが一居にも分かるからか、一居はハアと大きく溜息をつくしかなかった。

「…おい数人。俺のことは名前で呼べ」

「え、名前で呼んでるけど?」

「……冴子と同じ呼び方だけはすんな」

「冴子さんと同じ?……ああ、いっちゃんね!わりいわりい、ずっとそう聞いてたから。あーーじゃあ、一居、でいいか?」

「…ああ」

「おし。あ、じゃあダンボール片付けんの手伝えよ。これ畳めば終わるし」

 それに頷き、一居はとりあえずついさっき紐が外れたダンボールに取り掛かった。数人はそのダンボールのことなど忘れたかのように二つ目のダンボールを折り畳んでおり、一居は数人がやったダンボールは後でもう一度補強しなければと思う。だが、ただダンボールを折り畳んでいるだけなのにどこか楽しそうに作業している数人に、一居は無意識に小さく笑みが漏れた。夕飯は何か美味いもんでも食いに連れてってやろうと思いながら、一居は折り畳んだダンボールをギッと紐で括った。

 




 とりあえず幸先は良さそうな(少なくとも二人の人間関係については)、新婚生活第一日目が過ぎようとしていた。

 

 

 

 

                                                    End.



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