タカタ君の非日常的日常F



 

 

民法第136条

第1項 
期限は、債務者の利益のために定めたものと推定する。
第2項
期限の利益は、放棄することができる、ただし、これによって相手方の利益を害することはできない。


  

「おら、イけよ」

「―――ッッ、!」

 声を詰めて吐き出したものが、自分以外の手にかかる。
 そのどうしようもない事実に数人はいっそもう一度寝てしまおうかと思ったが、そんな数人の思考を読んだらしい一居に達したばかりの性器をギュウと握られた。

「イっ!?」

「今日2限からなんだろ、さっさと起きろ」

「……ハイ」

 正論すぎて、数人にはそれ以外返す言葉がない。それにもう一度あんなモノを握られるのはゴメンだとばかりに、数人はいそいそとベッドから抜け出した。今日は午後からしか講義がないらしい男が二度寝すべくシーツにもぐりこむのを恨めしそうに見ながらも。


 トーストをぼそぼそ齧りながら、数人はどうしてこんなことになってるんだともう何度考えたか分からないことを今日も考えていた。
 この悪趣味なマンションに越してきてから、数人と一居は当然別々の部屋でそれぞれのベッドで眠っていた。冗談のような経緯で事実夫婦にはなってしまったが、ここに初めて訪れた時に一居も言っていたようにそれは形だけのものだったし、そのことに数人とて異論があるわけもなかったから。
 あれから、もう半年。
 夫婦という超現実さえ無視すれば、一居との同居生活は思いのほか快適だったし、少々――いや、かなり傍若無人な男ではあっても一緒にいるのは楽しかった。別に二人で何かするわけでなく同じ空間にいるだけで、妙な心地良さをくれる人間だった。
 なのに。なのに、何故。

「俺は、あいつに朝の処理されてんだ…」

 半分も食べていない食パンを、諦めるように皿の上に戻す。
 ここずっと、朝起きると隣で一居が寝ているのだ。数人が寝入る時刻、真夜中過ぎに帰ってきた一居は何故か数人のベッドに入り込み、いつの間にか後ろから抱えられている。数人とて文句を言いたいのは山々なのだが、如何せんその時の数人は意識を閉ざす直前だ。理性と本能の比率では圧倒的に後者が大きい数人にとって、睡眠の欲求に勝てるものなどこの世にない。
 だいたい、一居は恋人――ではないかもしれないが、とにかく毎晩毎晩夜中過ぎまで女と一緒にいたに違いないのだ。以前は何の香りもしなかった数人のシーツには、いつの間にか甘ったるい香水の匂いが染み付くようになったのだから。

「……ワケわかんね」

 一体、どういうつもりで一居があんな所業に及んでいるのか数人には皆目検討もつかない。だが、他人の手でしてもらうそれは自分でやるのとは違う気持ちよさがあって、つい流されてしまう己がいけないんだろうかと数人は頭を抱え込んだ。
 ――と、そこにポケットの携帯が鳴った。取り出して見れば、午前中にかけてくるには珍しい友人の名前が液晶にあって、数人は怪訝に思いながら携帯に手を伸ばした。

 

 

「………なんでだ」

 薄暗い照明の下、ウーロン茶片手に数人は一人そう呟いた。
 部屋の中では、そこそこ上手い男の熱唱が響いている。そしてそんな男に歓声を上げる女の甲高い声も。
 何のことはない、午後10時現在、数人は大学の友人とカラオケボックスの中にいた。この3時間前には名も知らぬ小洒落た飲み屋にいて、今ボックスにいる女子大生6人と数人を含めた男子学生4人でいわゆる合コンをしてきたところだった。まあ現在も継続中ではあろうが。
 だが、数人にとってこれは1次会から合コンでも何でもなかった。 
 友人に誘われるがまま行った飲み屋には、覚えがありすぎる男が存在感たっぷりに座っていたのだから。

「カズー?どうした、疲れたか?」

 肩に手を置かれて隣を振り向けば、そこには数人に誘いの電話を入れた男の顔があった。

「あー…うん、少し」

「悪ぃな、来てもらった挙句に、大抵の女の子土屋狙いだし」

「……なあ、同じ学部じゃないよな、あいつ。なんで今日一緒?」

「ああ、なんか猪俣が語学が一緒らしくてさ、あの通り顔もイイし、女の子寄せに引っ張ってきたんだと。いつもは合コン来ない男らしくて、土屋来るって言ったら女の子の数、倍に膨れ上がったってわけ」

 それでか、と数人はようやくこの状況が理解できた。自分と一居が同じ飲み会に出ていること自体有り得ないが、こういった趣旨の飲み会――つまりは合コンの類を一居は一切断っていると言っていたし、猪俣に強引に連れて来られたんだろうと。
 そこまで考えて、え、一居が?と数人は心の中で自分に突っ込んだ。
 己なら分かる、猪俣はどうにも断るのが難しい誘いをかけるのが妙に上手く、いつも数人は彼に丸め込まれているから。だが、一居が猪俣に丸め込まれたりするだろうか。あの、頭の回転も早ければ口も異様に回る男が。
 そう思って一居に視線を向けると、一居は多分今日いた女の子の中では一番綺麗だろう女の子と、ほとんど密着に近い形で肩を寄せ合っていた。傍目にはいちゃこいているカップルにしか見えないぐらいに。
 それを見て、なるほど、ああいう態勢になって香水が移ることもあるかと数人は妙に感心した。
 そういえば、鼻がきくのか何なのか、一居が体に染みつけてくる香りは毎日同じではない気もする。香水の類が好きでない数人は、一居が布団にもぐりこむようになってからは毎日シーツを取り替えていたが、毎朝同じ香りがしたことはなかったなと。
 ――相手に不自由しない男ってのは、やっぱりいるもんだ。
 卒業してから数回も会っていない高校の友人たちも、そういえばあんな感じだったなあと、数人は一人カラオケボックスで郷愁に浸っていた――が。

 

「ああっ!?」

 

「な、なんだよカズ」

「ワリ、俺先帰る」

 財布から英世を三枚抜いて友人に渡し、数人はそそくさとカラオケボックスを後にする。数人が声をあげる前から数人に視線を送っていた男にはまったく気づかずに。

 

 

「ふー、間に合ってよかった」

 近所の大型スーパーの前、大きなビニール袋を両手に一つずつ抱えた数人は満足げに呟いた。
 数人が大声をあげ、脇目も振らず合コンを抜け出した理由は、何のことはない、近所のスーパーが今日『肉の大得市』と銘打ったセールを開催していることを思い出したからだ。
 時間も時間なのでたいしたものは手に入らないかとも思ったが、さすが24時間スーパー、たとえ夜の11時前でも結構な量の肉が揃っていた。数人だけであれば迷わず最安値の肉を買い漁るところだが、同居人は成人前にも関わらず舌が肥えているため、ある程度吟味して選ばなければならない。だが、一居はそれでも数人と暮らすようになってから食のレベルは下げたと言い張っている。それを聞いた時にはなんて贅沢なと思ったが、もちろん口には出さなかった。

 歩いて10分もかからないマンションの玄関が見えたところで、数人はおや、と目を凝らした。
 エントランス脇で煙草をふかしているのは、舌が肥えている19歳のはずだ。ついさっきまで左脇に女を侍らせていた。

「もう帰ってきたのか?」

 一居の傍まで近づいてそう聞くと、なぜか当の男はいやに不機嫌そうだった。

「……ソレか、お前が俺ほっぽいて帰った理由は」

「おお!肉が安売りしてたの思い出してさ、ちゃんとお前でも食べられそうな肉たんまり選んできたぞー」

 一居の厭味に気づくことなく、数人は満面の笑みで自信満々に答えた。そんな数人に一居は内心溜息をつく。
 ――しつこく合コンに誘う男の口から数人の名前が出て、そのためだけに来たくもない合コンに参加した。毎晩女の匂いをさせて帰ってきてもまったく興味なさげな男から、目の前で他の女とベタベタしてみせれば何か別の反応が返ってくるかもしれないと期待を込めて。
 だが、当の男は何か反応を返すどころか一居の方をほとんど見もしなかった。
 数人もああいった趣旨の飲み会はあまり好まないのだろう、1次会から乗り気でない様子は見て取れたが、だからと言ってああも見事に己を意識から切り離すとは。そうでもしなければ状況に耐えられなかっただろうことは分かるが、頭と感情は別物だ。イラつくものはイラつくのだ。

「こんな買い物上手で、俺はすげえいい嫁さんだぜ」

 そんな一居の内心など露知らず、屈託なく笑いながら数人はそんなことを言ってのける。出会った頃は「嫁」という単語を聞くだけでこの世の終わりのような顔をしていたのに、今ではもう冗談で話せるぐらいになってしまった。
 そこまで考えて、一居はふと気がつく。
 ここずっと、どうして自分は数人に何かしらの反応を期待して、無駄な行動を繰り返していたのか。
 その、どうしようもなくガキ臭い理由に思い至って、一居はク、と笑うしかなかった。

「あ?どうした?」

「――なんでもねえよ。ほんと、いい嫁さんもらってよかったわ」

「だろー?」

 ――嫁さん、ね。
 なあ数人、冗談にしてる事実が列記とした現実だって、覚えてるか?
 いつだって、それを真実にできるって。

 

「……潮時か」

 ぽつりと、一居はそう呟く。
 何か言ったか?と己を見る数人に、一居は感情の読めない笑みだけを返してみせた。
 まだ出会って間もない頃よく見せていた、ひどく冷たい笑みだった。

 

 

 

                                                   End.



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