9 −side r−


 

「なに、出ねえの?」

「うん。…さすがに講義中ってことはもうないはずなんだけど」

 電話を切り、俺は壁にかかっている時計を見上げた。短針は8、長針は4を指している。確か今日は5限までだと言っていたはずだが、何かあったんだろうかと俺はもう一度携帯を手に取った。

「やめとけ、蓮。用事できたのかもしれねーだろ」

「…でも、あいつ遅くなるって連絡は絶対するんだよ」

「はぁ??お前ら小学生のガキとその母親かあ?」

 心底呆れたような目を向けてくる杜を無視して、俺はもう一度桐の携帯に電話をかけた。だが、5コール待っても、10コール待っても桐が電話に出る様子はない。諦めて電話を切り、俺は今日初めて桐にメールアドレスを聞いておけばよかったと後悔した。

 結局、俺はまだ杜の家にいる。それは単に明日の朝からいつも行っている温泉宿に行くからで、そのことを桐に伝えようと思って電話をかけてみれば連絡がつかない、というのが今の状況だった。

「留守電にすらならないのか?」

 そこに万里の冷静な声が響く。それに頷くと、万里はハアと一つ溜息をついて口を開いた。

「なら、とりあえず待ってろ。10件以上着信履歴が残ってれば、日付が変わる前にはかけてくるだろ」

「ま、正論だな」

 そう杜が呟いたところで、万里は何か思い当たったことでもあったのか、怪訝そうな顔で俺を見た。

「……おい、もしかして家に忘れていったんじゃないだろうな」

「それすんげぇありえる…っとお、噂をすればじゃん」

 プルルルと俺の携帯の着信音が鳴って、液晶を見れば杜の言うとおり桐の名前があった。

「――もしもし、桐?」

『蓮?悪い、携帯気付かなくて。まだ大学なんだ』

「別にいーよ。…あのさ、明日から杜と万里と温泉行くから、今日このまま杜んち泊まるって言っとこうと思って」

『わかった。ああ、そうだ。土日、教授の手伝いで家を空けるけど、お前もか?』

「うん。帰りは多分月曜か火曜だと思う」

『そうか。じゃあ気をつけて行って来いよ』

「オミヤゲ買ってくる」

『アハハ。楽しみにしてる……っっ』

「桐?」

『――な、んでもない。ちょっと足ぶつけた。じゃあまたな』

「あ、うん。桐も気をつけろよ」

『ああ』

 向こうが電話を切る音が聞こえて、俺もパタンと携帯を閉じた。

「なんつーか…お前らって平和だよなあ」

「は?どこが」

「お前は電話出なかった時田ちゃんに文句言わないし、時田ちゃんもいきなり家空けるお前に文句言わないだろ。普通そう簡単にいかねーよ」

 そんなもんなんだろうかと思いながら、テーブルの上のジャーキーに手を伸ばす。そういえば足をぶつけたと言っていたが、また本棚の整理でもやらされてるんだろうか。ふと、床に置いてあった本の角に足の小指をぶつけて涙目になっている桐が頭の中に浮かんで、ついぶっと噴出してしまった。

「…ほんと、平和」

 ぼそっと呟いた杜に、俺は手に持っていたジャーキーを投げつけてやった。

 

 

「…おーい、雨降ってんぞ」

 朝起きると、にわか雨とは言えない強い雨が降っていた。行こうとしている温泉は隣県で、天気予報を見てみればそこも雨マークだった。しかも午前午後とも降水確率100%。

「夜になれば晴れるみたいだし、夕方に出るか?」

「あーその方がいいだろ」

 どうやら夕方出発が確定らしい。それなら、と俺は口を開いた。

「…じゃあ、一旦家帰っていい?」

「は?いいけど…つーかお前らほんと小学生のガキとママだぜ」

「うるさい」

 アハハハと笑って、杜は俺の髪をぐしゃぐしゃ掻き回した。髪を元に戻しながら、万里に「いい?」と聞くと、あまり見せない穏やかな笑みを顔に乗せて、万里は首を縦に振った。

 

 だが、家に帰っても部屋に桐はいなかった。

「あー、もう家出てたか」

「教授の手伝いっつってたしなあ、朝早いんじゃね、そういうの」

「…かもね」

 あまり予想していなかっただけに少し寂しい。気付けば二晩も桐とは顔を合わせていなくて、このまま温泉に行けばあと3日は桐に会えない。そう考えると、昨日のうちに桐に会っておけばよかったと今更ながら後悔する。

 きっと、優しく「行って来いよ」とか言いながら、見送ってくれたのに。

「おい蓮。そう分かりやすく落ち込むな」

「…え?」

「ったく…。なあ万里。雨だけどもう宿行くか?」

「それもいいかもな」

「おし。ほら、ここで待ってたって行っちまったもんは無理だろ。行くぞ」

「……ん」

 杜に促されるまま、俺は開けたままだった家のドアを閉め、車に乗った。隣に乗り込んできた杜が「どうせ何日かしたら会えるんだし」と言っていて、それに頷きながら窓の外にある桐のアパートを見る。万里が車を発車させるとそれがどんどん小さくなっていて、妙に感傷的な気分になった。

 顔を前に戻すと、ワイパーが雨粒をはねている。
 その単調な動きをしばらく見つめてから、俺は眠ろうと目を閉じた。

 


 


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