9 −side k−


 

 終業の鐘が鳴る。

「――今日はこれまで。来週は足利時代の政策決定から」

 樋口教授がそう言って教科書を閉じた途端、学生たちがガヤガヤと教室から出て行く。すると、学生の何人かが教授のところに質問に来て、俺はそれを横目に見ながら席を立った。

「時田、頼みたいことがあるから研究室行ってろ」

 教授を振り向くとすかさず鍵の束が飛んできて、先に行って開けておけということだろうと理解する。それを残っていた学生たちが怪訝そうに見ていたが、その視線を振り切るように俺は教室から出た。

 

 樋口教授の講義は水、木、金の週3回あるが、金曜の今日の講義は5限にあるせいか他の曜日よりは受講している学生が少ない。それでも、教授の講義は他の教授の講義よりは断然人気があって、その人気にあの容姿の良さが一役買っていることも知っていた。

 ついさっきも、いつも教授に質問に来ている女子学生に射抜くような目で見られた。それは別段今日に限ってのことではなくて、俺が教授の手伝いをするようになってからは何度もあったことだ。以前、さすがに居心地が悪かったので、一度教授に彼女のことを聞いてみたことがある。というよりは、暗に労働を減らしてくれませんかと頼むきっかけになりはしないかと思ったのが本音だが。が、しかし。

『あの4年の女か?俺の研究室に入りてえとか言ってきたんだけどな、俺はそういうのは取るつもりねえって断ったんだよ。だからじゃねえか?』

『…俺が睨まれる理由にはなってなくないですか?』

『ああ、なら手伝いがしたいって言ってきたから、お前がいるからいらねえって言ってやったんだよ』

 ……さすがにあの時は本気でぶん殴ろうかと思ったくらいだ。

 とにもかくにもそんな経緯があって、彼女に睨まれるのはもう致し方のないことだと諦めている。だが、もし彼女が教授の研究室に入ったとしても、きっとやらされるのは俺が今やっていることだろう?だとすれば、むしろ断られて正解だったと俺は思うんだが。

「……つーか鍵開いてんじゃねえか」

 ぶつぶつ心の中で独り言ちながら樋口教授の研究室の鍵を開ければ、なぜか逆にドアは閉まった。つまり、もともと開いていたということだ。

 なんて無用心なと思いながらもう一度鍵を差し込んでドアを開けると、中は電気まで煌々と点いていた。そして部屋の中の状態に俺はハアと溜息が出る。一体何をどうしたら先週片付けたはずの部屋がこうもぐちゃぐちゃに荒れるんだと不思議でしょうがなかった。俺が教授にコキ使われるのは水・木・金の3回だが、そのうち金曜はいつもこの部屋の掃除やら片付けをしているようなものだ。ああ今日もそうなるのか…と先週と同じことを思いながら、しょうがなく手近なところから片し始めた。

 

「やってるな」

 ガチャリとドアの開く音がして、振り向けばそこには部屋を荒らした張本人が立っていた。

「…先生、毎度のことですがどうして1週間でこうも荒れるんです」

「知るか」

 ふつふつと沸いてくる怒りをなんとか堪えながら、俺は手に持っていた本を書棚に入れていく。だが、どうせ同じ作業を来週もやるハメになるんだろうなと俺は今自分がやっていることが空しくなった。

「飯奢ってやるから、もーちっと踏ん張れ」

「って言われてもですね、どうせ……って何で!?」

「言っただろ?お前は分かりやすいんだよ」

 ククと小さく笑みを浮かべて、教授はいつのまにか吸っていた煙草の紫煙を静かに吐き出した。それは大学の喫煙所で、それこそ百人単位の男が毎日している仕草にも関わらず、この人のそれは確かに彼らとは全く違う。

 樋口周(ヒグチアマネ)という人間は、その仕草や立姿がやたらと絵になる人で、その全てがまるで一点の曇りもないように完璧に見える人だ。地位も、頭脳も、容姿も。誰しも一つは手に入れたいと思うもの全てを持っている。

 なのに何故か、この人はいつも何かに飢えているように見えた。

「お前のそれ、天然か?」

「…は?」

「よく、そうやって俺のことじーっと見てんだろ」

 言われてみて初めて気付くとはこのことで、どうやら俺はまた教授を凝視してしまっていたらしい。

「す、すみません」

 慌てて目を逸らし、中途になっていた本の整理に取り掛かる。脚立に乗り、とりあえず手に持っていた本を書棚に入れ終えて下を見れば、床や机の上にはまだまだ天高く本が積み重ねられている。…ぼうっとしている暇など一切ない。

 だが、どっちにしろこのままだと帰るのは確実に夜の9時を過ぎる。となると、蓮に連絡を入れておいたほうがいいだろうとポケットから携帯を取り出した。

「誰に掛けるんだ?」

「う、わっ!」

 いつの間にか俺のすぐ後ろに移動していたらしい教授が突然話しかけるものだから、俺は冗談じゃなく飛び上がった。そして当然のことながらバランスを崩し、ガタガタやらドサドサやら嫌な音を立てて足元から滑り落ちる――と思っていたが、何故か俺の体には何の衝撃も来なかった。

「…お前な、俺は幽霊かなんかか」

 寸でのところで俺を抱えてくれたらしい教授が呆れたようにそう呟く。俺はいたたまれなさに「すみません」と蚊の鳴くような声で言うことしかできず、とりあえず体を離そうと教授の肩に両手を当てた。――が。

「……あの、もうヘーキです」

「ああ」

 いや、ああ、じゃなくて。

 そういう思いを込めながら教授を見上げると、思いのほか近くに教授の顔があった。そのことに驚きながらも、何故かタチの悪そうな笑みを浮かべているその顔から俺は目が離せなかった。

「なあ、時田」

「……ハ、イ」

 ぐい、と顔同士が触れるほど抱き寄せられる。

 

「ヤろうぜ」

 

 ゆっくりと唇を塞がれて、気付けば舌を絡め取られていた。

 

 

 


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