7 −side k−


 

『いい加減、気付け』

 耳元でそう囁かれても、一体何のことだか分からなかった。
 聞こうと思って振り向けば、樋口教授は既に校舎の中に向かってしまっていて、俺は結局教授の表情すら見ることができなかった。

 

 授業の前、いつものように――そう自分で言ってしまえることが空しいが――教授に資料整理を言いつけられ、授業を受ける気力もないほどクタクタになった俺に教授は缶コーヒーをくれた。これもいつものことなので「ありがとうございます」と一礼してプルトップを開けて口につける。その味に、あ、と心の中で呟いて缶を口から離した。

「…うま」

 俺の呟きは、窓際で本を読んでいる教授には届かない。別に彼に聞かせるための呟きではなかったからいいのだが、教授がただの人使いの荒い人間だと思えなくなるのはこういう時だった。

 気温、季節、労働量。この3つに完璧に合ったコーヒーをこの人は俺にくれる。それは全て自販機で買える120円のものだったが、何故か一度も美味くないと感じたことがない。単に俺の舌が貧乏舌だからということも考えられなくもないが、そう考えるにはセレクトが俺にとって完璧すぎた。

「俺の顔に何か用か?」

「…え?あ、いや、別に」

「そうか?ずいぶん熱烈な視線だと思ったが」

 ク、と小さく笑うその顔は、端整なのにどうしても悪人にしか見えない。その顔が学生の――とりわけ女子学生の目を釘付けにするところを俺は幾度となく見てきたが、どうしてあんな信用ならなそうな顔を好きになれるんだろうかと不思議でしょうがなかった。

「お前、絶対今失礼なこと考えてるだろう」

「え!?」

「分かりやすいんだよ」

「そ、うですか?」

「なんだ、不服か?」

「いえ、そんなことはないんですが…」

 初めて、言われたもので。

 そう心の中で続けて、俺は目を伏せた。

『桐くんって、何考えてるのか分かんない』

『…お前さ、なんで怒んねーの?ほんとワケわかんねーな』

 俺をよく知る人は、皆二人と似たようなことを言った。俺は笑いたいときに笑うし、怒りたいときには怒っている。だが、俺が何度そう言っても、二人も周りの人間も信じようとはしなかった。

 

「よく見てりゃ、分かるんだよ」

 

「…え?」

「お前、あんま口に出さねえだろ?だから感情の起伏がないように見えんだけどな、顔見てればモロ出てるから、俺からすりゃ分かりやすいなんてもんじゃねえな」

「は、あ…そうなんですか」

「そーだよ。ああそうだ、お前来週の土日空けとけよ」

「いいですけど…その日は何でしょう」

 土日の二日間ともなると相当体力のいる仕事に違いないとゲンナリしながらも、こうなったら腐れ縁みたいなもんだと俺はそう聞いた。というより、その日になって山のような仕事に直面するより、最初にどんな仕事か聞いておけばショックも半減するから、という理由の方が勝ってはいるが。

「温泉」

「…………ハ?」

「重労働の礼に連れてってやるよ」

「今夏ですよ?…や、違う。先生、それは多分公私混同になるんじゃないかと…まさか経費で行くつもりですか?」

「俺はそんなケチじゃねーよ。それに公私混同ならもうとっくにしてんだろうが」

「えぇ?」

「俺の金で昼飯と夕飯、何回食い行った?」

「……すみません」

「まあいい。オラ、クソ講義の時間だ。荷物持て」

 

 そう言われて教室に行き、眠気と戦いながら受けた講義が終わって帰ろうとしたところで出た言葉が、あれだ。

 

「…何にだよ」

「とーーきたーーーー!」

 がばちょと何かがまた正面から突進してきた。この衝撃には覚えがあると思って上を向けば、やはりというか杜だった。

「な、なんでここに」

「俺ら夏休みで暇だから、時田ちゃんの大学来てみたいなってね、ウフ」

「…ああそう……って蓮!?」

 杜を引き剥がしたところで目に入ってきた人間に俺は目を剥いた。

「お前まで何やってんだ?」

「……………」

「…オイ?蓮?」

「……………」

 …何故反応しない。

「…杜、どうしたんだよ蓮は」

「さあ?」

「北原」

「…俺が知るか」

 お前らさっきまでずっと一緒にいたんだろう!と声を大にして叫びたいのは山々だったが、今の状態でそうするワケにもいかない。というのも、講義が終わって校舎から出てきた学生のほとんどが、俺たち――じゃない、俺以外の3人にちらちら視線を向けていて、恐ろしく居心地が悪いからだ。多分それは杜も北原も気付いているようだが、見られることに慣れているのか全く動じていない。

「…おい、杜に北原。もう講義ないし、俺はかえ」

「あいつ、誰?」

 るぞ、と言いたかったのだが、いきなりズイと至近距離に近付いてきた蓮にそれを阻まれた。

「あ…いつ?」

「さっき、校舎から一緒に出てきた」

「ああ、樋口教授のことか?ほら、いつも言ってるだろ、俺がコキ使われてる人だよ」

 そう言うと、蓮はあからさまに不機嫌な顔をした。

 その顔に「へ?」と心の中で呟きながら、俺はただただ蓮の顔を見つめていた。

 

 


HOME  BACK  TOP  NEXT 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送