18 −side r−
分かっていた。
こうやって、俺が桐のそばにいることが、どうしようもなく桐を傷つけていたことも。
そんな俺が、いつ桐に捨てられてもおかしくないことも。
でも、桐はやさしかった。あまりにやさしくて、どうしようもなく泣けるぐらいにやさしくて、その手をどうしても離したくなかった。
だから、俺が桐のことを相良と呼んでしまっても、それでもまだ桐は俺を見捨てないでいてくれるんじゃないかと、馬鹿なことに本気でそう思っていた。
「終わりにしよう」
そう、桐が言って、そして微笑んだときも、俺は桐が俺と桐との終わりのことを言ってるんだとすぐには分からなかった。
分かって、頭の中が真っ白になって、それからスウッと体が落ちていくような感覚が俺を襲った。
なんとかそれに耐えて拳を握り締めながら桐を見れば、桐はやはり微笑みながら、泣いていた。
「俺は、何もできなかった」
そう言って、泣いた。
その表情は、何かに絶望しきっていて、そしてそんな顔をさせたのは間違いなく俺だということに、俺は桐のその顔を見て初めて気づいた。
でも。
でも、それでも。
馬鹿で、最低で、大事にしたい相手を違う名前で呼ぶような人間でも、俺は、桐を離したくなかった。
「い、やだ。絶対、桐から離れたくない」
「…ごめん。本当に、ごめん、蓮」
「何で謝んの?桐は何も悪くない。悪いのは俺で、そのこと分かってるけど、でも、俺は桐のそばにいたいんだ」
「…ご、め…頼む、蓮…許して」
「違う!俺が、俺の方がいつも許してもらって」
「――蓮」
それは、けして大きな声じゃなかった。
桐らしい、静かで穏やかな、そしてどこか小さい子に向けるような、優しい声。
なのに、もう何も言えなくなってしまうような、酷く澄み切った声だった。
「…もう、お前の傍にはいられないんだ、蓮」
そう言って、桐は椅子から立ち上がって、俺の隣に立った。そして、視線を合わせることができなかった俺の、テーブルの上にあった両手を握った。
「いつか、いつかでいいから、俺じゃないほかの誰かを、大事にしてやって」
お前は、俺なんかよりずっと、誰かを幸せにすることができるし、愛してやることだってできるんだから。
そう続けて、綺麗すぎる笑みを浮かべた桐を、俺は呆然と見つめた。
でも、でも、それは、桐。
俺に、桐じゃない誰かを好きになれってこと?
桐は、俺から離れるってこと?
そう考えたら、その言葉が、体じゅうの血を一気に逆流させるようなそんな衝撃になって俺を襲って、もう、抑え切れなかった。
「…俺は、桐しか、好きにならない。…分かってる。多分、俺は相良を忘れらんなくて、もしかしたらまた桐を傷つけるかもしれないことも。でも、それでも、俺は桐に傍にいてほしいんだ。俺は、桐が、どうしようもなく好きだから」
多分、俺が誰かにこんなにも感情を昂ぶらせて何かを伝えようとしたのは、初めてだろう。
別にそれまでは、何かを伝えたい相手も、そして伝えたい内容もなかったから。
相良は、俺がどうしようと関係なく、自分のしたいがまま動いていた人間だったから。
「桐を、離したくない、絶対に」
もう一度繰り返して、そして桐に握られていた手を握り返して、俺は桐を見つめた。
桐の目からは、耐えず涙が流れていて、その涙を流させているのが紛れもなく俺自身だということを知りながら、それでも、俺は桐を見つめ続けた。
すると、桐はゆっくりと一つ瞬きをして、静かに口を開いた。
「お前は、俺を愛せないよ」
「き、り」
ひゅっと、声にならない声が漏れる。
「それでも、お前は俺に傍にいろっていうのか?」
――綺麗、だった。
閉じた目を開け、そして絶望しながら、それでも穏やかな笑みをその顔に乗せる桐は、たとえ桐自身を傷つけても欲しいと思ってしまうぐらい、綺麗だった。
「…そうだよ。もし俺が桐を愛せなくても、俺は絶対桐を離さない」
そう、まるで重罪を宣告するかのように囁いた俺に、桐は静かに目を閉じた。
その閉じた瞼に口づけを落とすと、桐の目からは堪え切れないように、一筋涙が零れた。
どれほど残酷なことを、桐に強いろうとしているのか、分かっている。
でも、俺はきっと一生、この存在を傍から離すつもりはない。
いや、離すことができないんだろうと、そう、思った。
『ヘーキか?』
そう言って俺を救い出してくれた、俺の二人目の太陽を、俺は一人目のそれよりずっと強い力で、一生求め続ける。
水面の太陽は、けして手に入れることが叶わないのも知らず。
ただただ水に映るだけの、透明な太陽を。
End.
HOME BACK TOP