15 −side k−
「………っっ」
息を呑んだ。
もう少しで、声をあげてしまいそうだった。
――蓮。
心の中だけで、その名を呼ぶ。
もう何度呼んだか知れない、もしかしたら、家族の誰より俺はその名を呼んだかもしれない。
蓮は、俺の部屋のドアの前に、体を小さくして座っていた。長い手足を両腕で抱えるようにして座っているその様を、俺は確かにほんの数週間前まで何度も見ていた。かなりの金持ちの家に育ったらしい蓮がどうしてそんな格好をするのか不思議で、一緒に暮らし始めて間もなくの頃尋ねたことがある。そのカッコ、癖なのかと。すると蓮は困ったように小さく笑って、よく小さいころそうやって隠れていたと言った。
それを聞いて、あまりにいたたまれなくなって、俺は蓮の背中をぽんぽんと軽く叩いた。すると蓮は、何故か本当に嬉しそうに笑って、それこそ、花が綻ぶように、笑って。
あの、夢と現を彷徨っていた頃の、危うげで、けれど泣きたくなるほど透明な笑みを。
「相良」ではなくて、俺に向けた。
「……蓮」
小さく、自分の耳にすら聞こえないほどの小さな声で、俺は慣れ親しんだその名を呼ぶ。それはあまりに俺に馴染んで、いっそこのまま大声で蓮の名を叫んでしまいたかった。
そして、あの笑みを、もう一度でいいから見せてほしかった。
確かに俺に向けてくれた、一度だけのあの透明な笑みを、俺に。
でも、それをしてはならないことを、きっと俺は誰より知っている。
そのことに、泣きたくなるほど。
蓮が帰ってきた。数週間前、そう一言だけ言って電話を切った相手に、電話をかける。
「――部屋の前に、蓮がいる」
そう言って、俺も同じようにすぐに電話を切った。
どうせ、杜はすぐに事態を理解して、多分20分もせずにここに来るだろう。そして、ドアの前で蹲っている蓮を、あの人好きのする笑みでうまく言いくるめて、家に帰らせるだろう。
きっと、二度とここには来るなと、言うだろう。
そんなやり取りをするだろう蓮と杜など、絶対に見ていたくなかった。
だから、杜が来る前にここを去ろうと、家とは反対の方向に踵を返す。正面に広がるのは見慣れた小道なのに、どうして目の前をちらつくのは蓮の蹲っている姿なんだろうか。どうして、蓮の笑みなんだろうか。どうして、蓮の声なんだろうか。
どうして俺は、こうも蓮を忘れられないんだろうか。
「………っっ!!」
堪らず、振り返った。
振り返った先にはやはり蓮が蹲っていて、このまま、蓮の傍に駆け寄りたかった。
そして、蓮に俺の名前を呼んでほしかった。
もうどれくらい、あの声に呼ばれていない?
あの、誰より優しい穏やかな声で俺の名前を呼ばれなくなって、一体どれくらい経つ?
――分かっている。
分かっているのだ、大して時は経っていないことを。
なのに、まるで10年も呼ばれていないようなそんな気がする理由も、俺は確かに知っている。
夜の大学にはほとんど人がいなかった。というより、今は夏季休暇だから、ほとんどというより皆無に近いかもしれない。昼でも院生の姿が時折ちらほらあるだけで、夜になれば警備の人間しか大学のキャンパス内に人影はなかった。
だが、だから俺は大学に来た。
史学科の学部棟の前のベンチに座り、たまたま持っていた資料を読んで、とにかく蓮のことを考えずに済む時間が欲しかった。
夏の終わりの夜の空気はさすがに少し冷えるが、別に我慢できないほどではない。どうせ杜が蓮を連れて行くのにそう時間はかからないだろうが、きっと部屋に戻ったら最後、蓮のことだけを俺は思い続ける。
そんな時間など、俺には耐えられない。
いない人間を思う苦しさを、蓮を見ていた俺はよく知っている。
思考を振り切るように本を開く。
そこには俺の関心を引くものが確かにあって、何とかこれに読み耽ろうとページを進めた、その時だった。
「時田?」
聞き覚えのある声がどこかから聞こえてきて、俺は視線を上に上げる。すると、史学科の玄関の前に樋口教授が立っていた。玄関には白熱灯が点っていて、夜の割には思いのほかはっきりと教授の顔が見える。その顔は明らかに「何やってんだお前」というような顔で、こういうときだけは感情を表に出すのかとどうでもいいことを考えた。
だが。
「ちょーどよかった。探してる本があったんだけどな、見つかんねーんだよ。どこにあんのか教えろ」
と、嬉々とした声が聞こえてきて、やっぱり俺には教授の思考なんぞ一生読めないと思った。
でも、今ここに教授がいることを、俺は見えない何かに感謝したかった。
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