14 −side r−
圧倒的に、何かが足りなかった。
それが何なのかは分からない。だが、体じゅうを覆う喪失感は決して俺から離れてくれず、波照間島から帰る船で感じたそれは、2週間が経った今でも消えることはない。
そんな俺を多分杜も万里も気付いてはいるんだろう。毎日のように家を訪ねてきてはどこかへ出かけようと誘ってくる二人を、俺はその度に笑いながら断った。付き合いの長い二人は俺に無理強いすることは決してなくて、それからは夜時々酒を持って家に来るようになった。
特に杜は、どこか異常なくらい俺の家に来るようになっていて、出不精の俺を飽きずに外に誘う。当然俺はそれに頷くことはないが、それでも杜は毎日のように俺の家に遊びに来た。
そんな態度に俺が嫌にならないのも、人との付き合い方がやたらと上手い杜ゆえなんだろう。きっと、そのうち根気強いようでサバサバし過ぎているような杜に根負けして、俺は家に閉じこもるのをやめるような予感がした。
ただ、このどうしようもない喪失感を抱えたままで。
「…ひさしぶり、かな」
相良の墓の前でそう呟いて、俺は持ってきた菊の花束を墓の上に無造作に置いた。相良の墓に花を供えるのはこれが初めてで、だからか、数え切れないほど来ていたはずの相良の墓はそれまでとはどこか違って見えた。
多分、もうずっと、石でできている相良の墓を見るたびに、これが墓なんだと分からなくなっていったような気がする。
というより、ただの石だと思いたかったんだろう。
この墓石の下に、あの鮮烈としか言い様のない空気を持った相良が眠っているなどと、信じたくはなかったのだ。
「…相良」
どうして、いなくなった?
そう、聴こうとして、聴けなかった。
相良じゃない誰かに、今と同じことを聴いたような気がする。
風のように頭の中を過ぎった記憶は、何故か潮の香りがした。
でも、誰に?
「………っっ」
どうしても、思い出せない。
それはあの船で感じた喪失感と絶対に同じものに違いなくて、どうして自分の記憶がこうも思い通りにならないのかと、生まれて初めてと言っていいほど苛々した。
だが、ふと伏せていた目を開ければそこには俺が持ってきた菊花が見えて、それに少しだけ気を落ち着けた俺はその花を手に取って花差しに生けた。
黒と灰色の間の曖昧な色をしている墓に、白と黄色のそれは目に痛いほど鮮やかで、まるで相良のようだった。多分花の中では地味な部類に入る菊がどうして相良のイメージにこうも嵌るんだろうかと思ったが、ただ鮮やかなだけではなかった相良は確かに薔薇や桜のような華やかな花では決してなかった。
それが、23という若さで死んだという事実がそうさせているのか、それとも俺が初めて相良に会った11の時から変わっていないのかは分からないが、墓石の前で揺れる数本の菊の花は、やはり相良を思い出させた。
きっと、俺は3ヶ月前と全く変わらず、こうして相良の墓に何度も足を運ぶだろう。そしてその度に俺は菊花を供えるに違いない。
そう思いながら、俺はまた来るとだけ言って相良の墓を後にして、ほとんど惰性のように足を前へ動かした。
相も変わらず墓地を下る坂道から見える景色は綺麗で、でも、相良が死ななければ知ることはなかったこの景色を、できるなら一生知りたくはなかったと今更のように思った。
着いたのは、まったく知らないアパートの前だった。
「…どこだ?」
知らずそんな言葉が口から漏れる。今確かに俺が歩いてきただろう道を振り返ると、まったく見覚えのない小道が続いていた。
だが、視線をアパートに戻して、俺は無意識に1階の左から二番目のドアに視線をやった。いや、そんな軽いものではないかもしれない。もはや食い入るように見ていたそのドアは、決して見覚えがないはずなのに、何故かあまりに俺の目に馴染んだ。
ほとんど無意識にそのドアの方に歩を進める。数歩で着いたそのドアの前に立つと、102と書かれたプレートが貼ってあるだけのその古ぼけたドアは、俺が失くしていたものの一つのような気がした。それこそ、確信のように。
ドアノブを握れば、その感覚はさらに強くなって、絶対にこのドアの先に、俺が失くしたものがあると思った。
あの泣きたくなるほどの喪失感を、きっと俺から取り払ってくれる何か。
――いや、誰かが。
一度そう思ってしまえば、もう駄目だった。
ドアノブをガチャガチャと乱暴に回しても鍵がかかっているドアは開かず、それならとドアを強く叩いてもやはりドアは決して開かなかった。
絶対。
絶対に、俺はこのドアを開けるための鍵を、持っていたに違いないのに。
それに、たとえ鍵がなくても、このドアの向こうにいたはずの誰かは、このドアを開けてくれていたはずなのに。
「―――」
なのに、どうして名前すら思い出せない?
どうか。
どうかお願いだから、「彼」に会わせてください。
神様。
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