10 −side r−


 

「ただいま」

 実家では一度も言ったことのない言葉も、この部屋に帰ってくるときは自然に出る。そのことに意味もなく嬉しくなりながらドアを開けると、部屋の中にはずっと会いたかった人間が座っていた。

「おかえ……な、なんだ?ずいぶん大荷物だな」

「オミヤゲ」

「は!?全部か!?」

「うん」

 温泉宿で桐が好きそうな饅頭やクッキーをしめて10コほど買い、帰り道に昼食を取ろうと寄ったファッションビル内の適当な店で桐に似合いそうな服を5着ほど買い、その下の階にあった雑貨用品店で桐の枕を買ってきた。
 それを適当に割愛しながら説明すると、桐は心底疲れたような表情で「さんきゅ」と言った。なんとなく桐がこういう反応をするだろうことは予想していて、俺はクスクス笑いながら相変わらず空気の匂いしかしない桐に後ろからベッタリ張り付いた。

「あー…落ち着く」

「俺は癒しグッズかなんかか」

「あ、それいいかも」

「…温泉、気持ちよかったか?」

「うん」

 桐には負けるかもしれないけど、と心の中で付け加えて、俺は桐の髪に顔を埋めた。そこからは、俺も使っている嗅ぎ慣れたシャンプーの香りがして、どうして同じ匂いなのに桐から香るとこうもいい匂いなんだろうと思った。


 こうしていると、頭の中がどんどん空っぽになっていく。

 俺はこの感覚が小さい頃から好きで、目の前のものが見えているのにぼやけているような、そんな風景が何よりも好きだった。
 というより、俺は暗闇が嫌いなのだ。
 だから、眼を瞑ってから眠るまでの時間はできるだけ少ない方がいいし、見たくないものがあるときは、こうやって頭の中を空にしていけばそれは輪郭すらおぼろげになる。

 これが、喧嘩ばかりしていた父親と母親を見たくないがゆえに、小さかった俺が見出した方法だとは分かっていた。

 そして、相良に会ってから、そうなる回数はどんどん減っていって。

 相良が死んでから、どんどん増えていった。

 

「……なあ、桐」

「何だ?」

「今度、二人で波照間島いかない?」

「波照間島?どこのことだ?」

「沖縄のずっと南。星、キレーなんだって」

 

 綺麗で、あまりに綺麗過ぎて忘れられない夜がある。

 プラネタリウムみたいな夜空も、キンと音がしそうなほど澄んだ空気も。

 つないでいた、手のあたたかさも。

 

『なあー蓮ー』

『何?』

『今度はさ、日本の南の端っこ行こうぜ』

『沖縄?』

『うんにゃ。確か、ナントカ島っつったはず』

『…波照間島のこと?』

『おお、それそれ。写真で見たんだけどな、すげえキレーだったんだよ』

『ふうん』

『お前はさー、もっといっぱいキレーなもん見て、もっといっぱいウマいもん食った方がいいからな』

 

 そう言って、微笑んだ相良の顔も。

 

 

 行こうと、言っていたくせに。

 もう絶対叶わない。

 

 

「…やっぱり、別のとこ行こ」

「え?」

「多分、暑いし。やっぱり、違うとこ行こ?」

「…俺は構わないけど、どうかしたのか?」

「別に。ただ違うとこがいいなって思っただけ」

 どうしても、相良とでないと、行きたくないと思っただけ。

 だから、一生、波照間島なんて、行かない。
 あの青い海になんて、入りたくもない。
 俺の中で、あそこは、写真だけの島でいい。
 相良が見せてくれた、写真の中の星と、海と、岬だけで、いい。

「蓮」

「…何?」

「こっち見ろ」

 そう言われた途端、桐にぐいと首を引き寄せられた。危うくバランスを崩して倒れそうになって、それを片手をついて堪えると、すぐ傍に桐の顔があった。

 息が、止まる。

「どこ、行きたい?」

 俺の頬を優しく両手で挟んで、桐は穏やかに微笑んだ。

 堪らず目を逸らしそうになっても、桐がそれを許してはくれなかった。
 顔を伏せようとしても、桐は頬を挟む手に力を入れてそれを許さず、視線を桐から外そうとしても、桐の目がそれを許してはくれなかった。

 だから、見たくなかった。

 桐の顔など、見たくなかったのだ。

 執拗に後ろから抱きついて、何も香らない肩に顔を埋めて、頭を空っぽにしていけば、桐が相良に見えることなどなかった。

 桐を大事だと思えるほどには桐を知りすぎてしまって。

 でも、桐の顔が相良に見えなくなるほど、相良のことを忘れられるはずもなかった。


「さが、ら」


 ―――きっと、酒を飲まなければ行くことのできなかった世界に、今なら行くことができる。

 このまま、桐を相良にして、俺の望んだ世界を生きていくことが。

 でも。
 でも、桐。


「波照間島に、行こうぜ」


 それで、お前はいいの?


 そう聞こうと思っていたのに、俺の頭の中からその言葉は一瞬で消えた。

 




 桐は、相良だ。

 キリは、相良だ。

 ――は、相良だ。

 

 相良だ。

 

 


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