リンキの男

 

 


 

「それ、とってくれない奥野?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 宝が柏木と奥野の部屋でいつものように夜のココアを飲んでいると、背後から柏木のそんな声が聞こえてきた。最初、宝は別にその台詞に何も思ってはいなかった。今現在、宝と奥野は向かい合うようにしてソファに腰掛けており、柏木はと言えばソファの後ろで何やら作業をしている。だから、単に奥野のそばに柏木がほしい何かがあるんだろう、そうとしか考えていなかった。

「ちょっと奥野って、それだってば」

「……自分で届くだろう、柏木」

 そうなの?と思いながら振り向いた先で柏木が指差していたのは、どう見ても、明らかに柏木の位置からの方が近い場所にあるクリップボード。

 目が点になるとはこのことだと宝は思う。

「立つの面倒なんだって」

 柏木はまるで当たり前のようにそう言った。その綺麗な顔には自分の言ってることは何かおかしい?とでも言うような不遜な笑みが乗っかっていて、そして奥野がそうするだろうことに全く疑いを持っていない。

 いや、奥野先輩は立ち上がって、5歩歩いて、さらに手を伸ばさなくちゃそれは取れないですが、柏木先輩なら少し腰を浮かせば簡単に届きますよ?

 とは口には出せない宝の心の中での突っ込みである。

「―――おい、チビ来てねー…っているな。寝るからさっさと戻れ」

 この場の凍ったような雰囲気をものともせず清嶺がドアを開けて現れたとき、宝はなぜか助かったと思うと同時にどうしようもなく嫌な予感がした。

「…なんだ?おい善也、てめーら喧嘩でもしてんのかよ」

「いや、してない」

「ならなんなんだよこの微妙な空気は」

「……自分の目と鼻の先にあるクリップボードを俺に取れと柏木様のご命令なんだよ」

「なら取りゃいーだろ?いつもやってんだし」

 か…体が固まる…。

 背中にダラダラ冷や汗が流れそうになるのを感じながら、宝はそれなら自分が取るとばかりにソファから立ち上がった。多分クリップボードそのものが問題ではないことは宝も分かっていたのだが、この空気ばかりはさすがに耐えられそうにない。とにかくボードを渡してそのままとっとこずらかろうと宝はクリップボードに手を伸ばした。―――が。

「駄目だよ藤縞。それは奥野が取るんだから」

 笑顔がこれほど怖い人間を宝は柏木以外に知らないとつくづく思う。その笑顔につられるように引きつったような笑みを顔に乗せると、宝はクルリと清嶺のいるドアの方に振り返り、そのまま部屋を出ていくための一歩を踏み出した。

「そうだろ奥野?だって奥野はおやさしいもんな?」

「…どういう意味だ?」

「どーゆー意味ってそのまんまだけど?」

 動けない。一歩足を踏み出したきり宝は次の一歩をまったく踏み出すことができなかった。それもこれも今宝の後ろでいや〜な雰囲気を醸し出している二人の応酬のせいである。ドアの傍に突っ立ったままの清嶺に視線を向ければ、清嶺は清嶺で怪訝そうな表情をその顔に乗せていた。

 

 宝がなんとかロボットのようにぎこちない足取りで清嶺のいる場所に辿り着くと、首根っこを掴まれてクルリと体を反転させられた。そして、そのまま後ろから覆いかぶさられるように抱きかかえられる。清嶺の顔が耳元に近付くのを気配で感じながら宝は視線を例の二人に向けた。

「…長引くぞ」

 ボソリと小声で囁かれる清嶺の声。その声に宝は顔だけをわずかに振り向かせて、同じように小声で口を開いた。

「なんかあったの?」

「知らねーよ。でも玲一の話ぶりだと善也が何かやらかしたんだろ」

「奥野先輩がぁ?」

「どーせ『おやさしい』とか言ってるあたり女関係じゃねーのか」

「えぇ??」

 

「なあ柏木。大抵のことなら聞いてやってるつもりなんだが、さっきのそれは少し度を超していないか?」

 とうとう奥野の台詞で1分は続いただろう沈黙が破られた。その台詞が溜息まじりに吐かれていることが柏木の何かに触れはしないだろうかと、清嶺は同じく溜息を漏らしながら他人事のように思う。

「……図書館の本棚の上から二段目って下から何センチくらいのところにあると思う、藤縞?」

 が、どうやら他人事ではすませられないらしい台詞が柏木から発せられた。

「え、う、上から二段目?えっと…俺の目線よりちょっと上だから170センチぐらい?」

「そ。正確には168.7センチ。当然藤縞でも簡単に手が届くし、藤縞より10センチ低い子でもまだ簡単に手が届く位置にある」

「そ、そうなんですか」

「そ」

 …………沈黙。

 一体今の話題がさっきまでの応酬と何の関係があるんだと宝はまるでちんぷんかんぷんだった。が、清嶺には分かっていた。というよりは分かってしまったという言い方の方が清嶺的には正しいのだろうが。なので、当然柏木が矛先が向けている奥野が分からないはずもなく。

「…彼女はもっと低かっただろう」

「いーや。俺の脳みそにはあの子の身長は155.8センチと記憶されてある。だから正確には藤縞より10センチも低くない。ああちなみに体重は彼女の方が藤縞より若干重いしな」

 何気にぐさぐさと宝のプライドを刺激する単語がどんどん羅列されていくが、それに反論できるものは宝にあるはずもなかった。献血を断られ、サナダ虫疑惑まで浮上した(正確には今宝を後ろから抱きかかえている男に浮上させられた)宝にとって、身長と体重の話題は自分的にタブーだったというのに。

「…片手に何冊か本を抱えていたんだ。それだと手を伸ばしづらいだろう」

「あ、そ。ほんとおやさしいことで、奥野センパイは」

 

「…柏木センパイどうしたんだろ」

 ぼそと軽く後ろを振り向いて宝は清嶺にそう呟いた。

「は?見てわかんだろ。ありゃ単に悋気起こしてるだけだ」

「リンキ?」

「……ほんっとバカだな」

「バ…!?リンキなんて誰も使わないだろ!」

「使わなくても普通知ってんだろ」

「しらねーよ!それ昔の人が使ってた言葉じゃないの?ああそっか、清嶺フケてるもんな!」

「こンのクソガキ…」

 身長体重のことで気が立っていた宝は絶対に大したことではないことで怒りを噴火させた。そして清嶺もそれが大したことでないことは分かりながらも、寝ようと思っても宝がちっとも部屋に帰ってこなかったことで苛々していたために同じようにブチ切れた。

 ―――が。

「柏木先輩!清嶺がセンパイがリンキ起こしてるって言ってる!」

 言葉の意味が分からなくとも、多分柏木にとっていい意味の単語でないことだけは雰囲気で分かった宝は、こともあろうにそれを今の柏木にチクった。
 それに驚いたのは清嶺である。なんだってこんな状況でそれを言う!?とばかりに宝の口を両手で塞ぐも、如何せん聞かれて困る言葉はすでに柏木の耳に入ってしまっている。

「…へえ…いい根性してんじゃん、清嶺。普段悋気の塊のヤツにそう言われるのはすごい心外だけどなあ」

 目が据わっている。

 そのことに清嶺ですら「やばい」と思ってしまったのだから、同じくそれを目の当たりにしている宝が「めちゃくちゃやばい」と思うのにそう時間はかからなかった。

「おい柏木、こいつらに当たることはないだろう」

「はぁ?何言ってんの奥野。人を悋気呼ばわりした悋気の権化みたいな従弟に言い返すのは当然だろ?」

「なんだ、図星なのか?」

 沈黙。

 というよりは空白といった方がいいだろうか。

「……ほんっっきで頭きた…」

 その台詞と表情にさしもの奥野も「やばい」と思ったが、時既に遅し。

 気付けばいつもの感情の読めない表情が柏木の顔に乗っていて、そしてその口から聞こえてきたのは耳を疑いたくなるような台詞だった。

 

「フジシマー?実は来週パーティーがあるんだけどさあ、それに一緒に出てくんない?」

 

 清嶺と奥野は揃いも揃って固まり、宝は宝で頭の上に?マークでも浮かんでいそうな顔をした。

「俺のパートナー選びなんだけどさぁ、とりあえず最後の切り札ってことで。あ、もし一緒に出てくれたら清嶺の最大の弱点教えてやるよ」

「出ます」

 最大の弱点という単語に宝は即答した。

 

「さんきゅー」

 

 そう言って清嶺と奥野を振り向いた柏木の顔は、二人には悪魔のそれにしか見えなかった。

 

 



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