忘れそうになる。そう、何度も思った。
 何度も何度も、そう思って。

 忘れてはならないのだと気づいたのは、夏のはじめだった。

 

 

  


 
終わりが来てくれた、やっと終わる。
 
やっと新しい朝を迎えられる。





 前編



  

 高音で鳴り続ける目覚ましに手を伸ばし、航はゆっくりとそれを止めた。
 7時に鳴り始めたそれに気付いたのは優に5分は過ぎた頃で、どうして今の今まで気づかなかったんだろうかと航は心の中で首を傾げる。だが、昨日の夜から一睡もできずにいた自分は、きっと常の己ではないのだろうと思って、そして手に持っていた目覚ましを静かに元の場所に置いた。

「…砒素、か」

 声に出しても、まったく現実味がない。
 見たことも触れたこともないその物質のことを耳にしたことだけはあるが、必ずと言っていいほど「死」という単語がそれには付きまとっていたように航は思う。そう考えると何故か、一気にその元素は己にとって酷く身近なものになるのだ。
 あの夜から今この時まで、それを望んでいなかったと言えば嘘になるから。

 

 ――風の冷たい夜だった。
 学校のサマーキャンプの最終日で、少なからず皆が皆浮かれていたように思う。近所の農家から貰ったらしいとうもろこしをキャンプファイヤーで焼き、揃ってそれにかぶりついていた。しばらくして一人、二人と林の方へと向かっていき、教師が彼らに「崖があるから気をつけるように」と叫んでいたのを憶えている。
 そんな彼らをよそに、航は一人火のそばでゆっくりととうもろこしを食べていた。実はコーンスープに入っているそれしか食べたことのなかった航は、その夜がとうもろこしを食べた初めての日だったのだ。周りの皆の見よう見まねでかぶりついたそれはとても美味しくて、どうしても他の皆のように乱雑に食べる気にはなれなかった。
 担任の教師はもしかしたらそんな航に気がついていたのかもしれない。林の方に生徒が消えていったのを見計らったかのように、航に「余ったからやるよ」ともう一本とうもろこしをくれた。1、2年次の教師は、中学生の平均的な体重からはおよそ軽すぎる航を心配して何度か母親に連絡を取っていたようだから、担任も航の境遇を知っていたのかもしれない。中3になった今も、遠縁の親戚の家で幸せとは呼べない暮らしをしている航を、担任は思いのほか気にかけてくれていたから。

「いいんですか?」

「ああ。多分お前食べるの初めてだろう?そういう奴には1本でも足りないぐらいだ」

「…ありがとうございます」

 そう言うと、担任はその大きな手で航の頭を乱暴に撫ぜた。その感触に一瞬肩を竦め、それから妙な気恥ずかしさが航を襲って、航は教師から目を逸らすようにして再びとうもろこしかぶりつく。その様子に教師は小さく笑ったようだったが、それを目で確認する気にはなれなかった。
 ――それから、5分となかったように思う。
 クラスの男子が、「女の子が川に落ちそうになってる!」と教師の元に走ってきたのは。

 担任とともに航が崖のそばまで行くと、その場にいた副担任と生徒のほとんどが崖の下を覗き込んでいた。そんな生徒達を後ろに下がらせ、担任が副担任の元に行き、静かな声で何かを呟く。多分事情を聞いているのだろうと思いながら、航は彼らから少し離れた場所に立ち、崖の下をゆっくりと見下ろしてみた。すると、崖の頂上から30センチほど下にある枝に小さな少女がぶら下がっているのが見えて、航は思わず息を呑んだ。

「今助けるからな、もう少し頑張れよ!」

 と、そこに担任の声が響く。だが、そう言って担任が少女の真上にある崖に這い蹲ろうとした瞬間、副担任が「駄目です!」とそれを止めた。それと同時に、カラと音を立てて崩れた崖の一部が下に転がり落ちる。

「駄目なんです、先生。そこはとても地盤が緩くなっていて…さっき私が同じことをやろうとしたら、崖が少し崩れてしまったんです」

「な…!?」

「この子も、そのせいで足を滑らせたみたいで…」

 担任の強張ってゆく顔が遠くからでも分かる。そんな担任から航は視線を外し、今にも落ちそうになっている少女に目をやった。
 下の川までは、多分ビル5階分ぐらいの高さがある。しかも昼に見たこの川は水深がほとんどなく、ここから落ちれば少女に命はないだろう。

「じゃあロープは?」

「ロープだと人がやるよりさらに負荷がかかりますよ。…警察には連絡してありますが、ここまでは30分以上かかると…」

「クソ…ッ」

 そう担任が呟くと、その場に沈黙が流れた。だが、それから数秒もしないうちに、副担任が何かを思いついたようで「先生」と担任に話しかけた。

「体重の軽い人なら崩れないかもしれません」

「そうか!じゃあ近所の人に――」

「…でもどれだけ急いでも往復で20分は…」

「――ッ…」

 今度こそ、重い沈黙がその場に流れる。担任も副担任も、そして生徒たちも何も言うことができず、風と川の音だけが響いていた。そしてそうしているうちにも少女の顔は前見たときよりもさらに蒼白になっていて、航はぎゅっと拳を握り、意を決して口を開いた。

「俺が、やります」

「…崎谷?」

「多分…俺が男の中じゃいちばん軽いし、女子よりは腕力もあるはずだから」

「だが…」

「…このままじゃ、落ちてしまいます」

 そう言って、航は生徒の波を避け、少女の真上の崖まで行く。そしておそるおそるその場に這い蹲ってみると、担任がそうした時とは違い、今度は崖は崩れる様子は見せなかった。その様子に、担任も我に返ったかのように航の後ろへと回る。そして航の足を押さえて、「…頼む」と静かに呟いた。

 

「…手、伸ばせる?」

 崖下に顔を出した航に、少女は少し驚いたようだった。
 今にもずり落ちそうな手で必死に枝を掴み、かすかに震えているらしい少女に、航はさらに腕を伸ばしてもう一度同じことを言った。だが、少女は一言も口を開こうとはしない。――いや、違う。正確には、口は開いているのだが、声が出ないようだった。

「…分かった。じゃあ、片手だけ、枝から離せる?そしたら、俺が掴むから」

 それに、首だけで「うん」と頷く少女。その様子に航は少し安心して、小さくではあるが少女に笑みを浮かべてみせた。すると少女も少し落ち着いたようで微かに表情を和らげ、それからおそるおそる片手を枝から離す。それと同時に航は上半身をさらに崖の方へと下ろし、少女の手を掴もうとした。
 ――その、瞬間だった。

「危ねぇ崎谷!!」

 離れたところに立っていたクラスの男子がそう叫んだのは。
 そして、その声と同時に、どうやら限界ぎりぎりで持ちこたえていたらしい崖が、ガラガラと音を立てて崩れていったのは。

 



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