「け、ほ…っ」

 喉を掻きむしりたくような息苦しさと胸を締め付けるような痛みに、航は一つ大きな咳をした。
 咄嗟に口を押さえた手のひらについたのは、目にも鮮やかな、赤。それは航の白いシャツの袖口を染めて、その赤い染みが広がっていく様を航はただただ見つめた。
 ――音もなく、航の体は日に日に蝕まれてゆく。
 それはもう航自身隠しきれるようなものではなくて、ここ1ヶ月の凝った食事だったり、今日の朝の海老原の態度だったりは、海老原がそんな己に気付き始めたということなのだろうと航は思う。
 その事実は、航をどうしようもなく歓喜させて。
 そして同時に、この上なく絶望させた。

「…馬鹿みてー」

 許されたのかもしれないと勘違いしそうになる。
 本当に心配しているかのような真摯な双眸と航を強く抱きしめるその腕に、もしかしたら、と。
 だが、冷静に考えればそんな筈は絶対になくて。
 海老原のたった一人の妹を奪った自分がどうして許されたなんて思うのかと、歓喜しては絶望する、その繰り返しだった。
 ――だが、それももう、あと僅かだ。

「…大丈夫だよ、海老原」

 ついさっき、海老原に言った言葉を航は一人毎日のように呟く。
 まるで、自分に言い聞かせるように。

「あと、少しだから」







 航がその治療をひたすら拒み続けた個人病院の医師に偶然会ったのは、つい1週間前だ。
 1年前あの病院から逃げた時、このままだと航の命はもう3年と持たないと医師は悲痛な顔で言って、そして頼むから治療をさせてくれと何度も航の携帯に電話をかけてきた。
 そんな医師から逃げて、逃げて、逃げて。そしてもう1年が経った今、航の体はズタボロだった。
 砒素は航の体中の血液を駆け巡り、白血球が極端に少なくなって、航の内臓にはいくつもの悪性の腫瘍が見つかった。発癌性の高い毒素を採り続けて残されたのは、癌に侵されていない内臓のほとんどない身体だけだった。

『…あと、3ヶ月ともたない』

 絶望しきったように航にそう宣告した医師は、街で偶然会った航の頬を容赦なく叩いた。そして有無を言わさず病院に連れて行き、あらゆる検査を施して、もう何もかもが遅いと静かに呟いた。

 その日の夜、航は初めて海老原に自分から抱いてくれと言った。
 そんな航に海老原は酷く驚いたような顔をしたが、それでも「喜んで」と言って受け入れてくれた。
 海老原を体の中に受けいれている間じゅうずっと、航は貪欲に海老原の唇を求めた。本当は海老原は自分を抱くことはおろか唇を合わせることすらしたくなどないだろうにと思いながらも、どうしてもその日だけは止められなかった。
 大きな背中を何時にない強さで掻き抱き、精を吐き出した海老原が出て行こうとするのを航は子供のように泣いて嫌がった。
 お願いだから、もっと海老原で満たしてくれよと、普段なら絶対に言わないだろう台詞を海老原にぶつけて、そんな航を海老原は航の望むがまま何度も何度も抱いてくれた。


 二人が抱き合うのをやめたのは朝方に近い時間で。
 荒い息を繰り返しながら、航は自分に覆いかぶさる海老原の背中を強く抱いて、泣いた。
 自分が死ぬことが悲しくて、ではない。
 海老原の背中を抱きしめることが、もうあと僅かしかないということがあまりに悲しくて、航は声もなく涙を流した。



 

「……嬉しい、かな」

 俺が死んだら。
 そんな、自分で自分を傷つけるだけの独り言を言うのも、もう慣れた。
 そして、航は時々そうするように、自分が死んだ後のことを想像する。正確には、航が死んだ後の海老原のことをだ。
 航の想像の中の海老原は、人が変わったようになっている気がした。
 もう穏やかで優しくある必要はないと、けして見せてはくれない海老原の本質を曝け出して、今よりずっと楽に生きているんじゃないかと。
 そして黒田や航の知らない海老原の友人と、あの気安い雰囲気で、どこか楽しげに話をしているような。
 そこまで想像して、小さく笑みが漏れた。
 いつものことだ。自分が死ねばもう何もかもが終わりなのに、一体何を考えているんだろうと気付いて、つい小さく笑ってしまう。
 そう思うのに、こうして何度も同じことを繰り返す自分は本当に馬鹿だと航は思った。

 フウと一つ溜息を吐き、袖口を洗おうと着ていたシャツの釦を一つずつ外し始める。

 時計を見ると、針はちょうど午後の3時を差しているところだった。航を休ませて一人だけ学校に行った海老原が確か3コマまでと言っていたことを思い出し、そろそろ帰って来るなと釦に手をかけながら航はソファから立ち上がった。

 ――だが。

 ぐらりと、空間が歪んだ。
 何時にない酷い目眩に立っていることができず、航はそのまま床にガクリと膝をつく。そして同時に堪えきれない吐気が航を襲って、航は抑えることができずにその場で吐いた。

「……や、ば」

 体を起こしていることができず、ずるずると床の上に倒れこむ。
 床につけた顔には濡れた感触がして、それが己が吐き出した血だろうことはすぐに分かった。

 

 あと少し休めば、きっと立ち上がれる。
 この頭を直に揺さ振るような酷い目眩も、治まらない吐き気も、微かに手足に走る震えも、もうすぐ止んで。
 そうしたら、まずは服を洗濯機に突っ込もう。汚れを落とすのは、後でもできる。
 それから服を着替えよう。海老原が似合うと言ってくれた、生成りのシャツに。

 

 そして、言うんだ。
 何でもないような顔で、笑って、「おかえり」と。

 

 きっと、海老原は笑って「ただいま」と言ってくれる。

 

 あの、綺麗で、あたたかな笑みを、航にくれる。

 

 

 

「……わた、る?」

 

 

 

 大丈夫だよ、海老原。

 あと、少しだから。










 俺が、お前の前から――この世から、消えてやることができるまで。


 

 

  




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