なんとなく、こうなるような予感はしていたが、かと言って実際にこうなった時にどうするかまで考えてはいなかったなと、その状況にはあまりそぐわないことを航は考えた。

「まあ一応3日は待ったし、ちょうどいいよな?」

 そう言って航に微笑む海老原に、航は引き攣った笑みを返すことしかできない。

 航は今、何故か同じ男であるはずの海老原に完全に押し倒されているという状況だった。

 

 3日前――それは、航が初めて海老原の料理を馳走になった日のことなのだが、食事を終えて帰ろうとした航は玄関先であわや貞操を奪われそうになった。顔を真っ青にさせて許しを請えば、「俺と付き合うなら今日は勘弁してやるよ」とおよそ時代劇の悪代官しか言わなそうな台詞が返ってきて、とにかくその場を逃れたかった航は首を縦に振るしかなかった。
 その翌日、つまりは今から2日前、講義が終わってアパートに帰ろうとしていたところを、航はどこからともなく現れた海老原に攫われるように海老原のマンションに連れてこられた。すると前日に引き続きやたらと豪華な料理を振舞われ、食べ終えて帰ろうすれば、今度はキッチンで貞操の危機に見舞われた。そして前日と同様顔を真っ青にさせて許しを請えば、「明日も俺の家に夕飯食いに来るって言うなら今日は勘弁してやるよ」とその内容が変わっただけで前日と全く同じ台詞を返され、航はまたもや泣きそうな思いで首を縦に振った。
 そして昨日。葬式に行くような気分で海老原の家を訪ね、同じように絶品料理を振舞われ、若干警戒しながら帰ろうとすれば――以下省略。変わったのは場所と、「お前んちの合鍵、明日持って来い」という内容だけである。

 

 で、現在に至るというわけだが、今日の貞操を死守するための条件がさすがに簡単には首を縦に振れないものだった。

「とりあえず合鍵は貰っとくけど、同棲しようぜ?」

 というのがその内容である。そして「3日は待ったんだし、ちょうどいいよな」という台詞に続くわけだが、一体何がちょうどいいのか航のノーマルな思考回路では全くその繋がりが分からなかった。
 つまりは、押し倒されて何か言われるだろうことは航も予感していたが、その条件が飲めなかった時にどうするかまでは考えていなかった、というわけである。だが、同棲しようって言われたらどうしよう、などと予め予想がつくような脳みそなどどんな天才だって持っていない。…そう思い直してはみたものの、かと言って何がどうなるというわけでもなく、航は本気で泣きそうになった。

「まあ、契約上すぐっていう訳にもいかねえし、早くて1ヵ月後ってのは分かってるけどな。でも明日には大家に出てくってこと言っとけよ」

「え、ちょ、ま…な、」

「はぁ?日本語言えって」

 え、ちょっと待てって…何だよそれ。
 というのが航が発したかった言葉ではあるが、たとえちゃんと発声されたところで海老原を止められるわけでもない。
 だが、ここで首を縦に振らなければ目の前の男が本気で自分の貞操を奪おうとする男だということを航は初日に十分理解していて、明日の昼に申し訳なさそうに大家に解約の電話をしている自分が航には容易に想像できた。

 

 そして1ヵ月後、航は若干目の端に涙を浮かべながら少しの荷物とともに海老原の家に引っ越したのである。

 

 

「朝飯作るけど、もう用意できたか?」

「あ、今行く」

 カバンに教科書やノートを詰め、それを持って航は部屋から出る。海老原のマンションには航個人の部屋が用意されていて、空間だけで言うなら前のアパートより断然住み心地が良かった。
 そして、あれほど強引に事を進めた海老原も、一緒に暮らし始めると思いのほか普通の人間だった。むしろ、朝晩と航のために食事を作ってくれたり、そして驚くことに弁当まで持たせてくれたりして、航は海老原と暮らして3日で海老原の認識を改めた。
 だが、一番好感が持てたのは海老原の航との付き合い方だったかもしれない。
 男と付き合うということを想像すらできなかった航を無理にどうこうしようとは決してせず、ただひたすら航を優しく見つめていたりするその穏やかさは酷く心地よかった。今思えば、一緒に暮らす前に見せた人が変わったような行動や言動の数々は、航と海老原との距離を縮めるためだけのものだったのかもしれないとさえ思う。
 それが海老原が持つ面の一つなんだろうとは航も思うが、かと言ってあれが海老原そのものではないことはすぐに分かって、そのことがさらに航と海老原を近づけた。
 というより、もともとどうしようもなく人の目を惹き付けてしまうような男なのだ、海老原という人間は。
 その端整な顔に似合わない乱暴な物言いであるとか、物事にクールそうに見えるのに恐ろしく面倒見がいいことであるとかは海老原という人間を魅力的に見せこそすれ、決して損なうことはない。

「崎谷ー、お前ポーチドエッグ好き?」

「おー」

「オーケー」

 キッチンから聞こえてくる海老原の陽気な声に、航はふわあと一つ欠伸を零しながら応える。一応、一緒に暮らし始めたその日に夕飯を作る手伝いをしようとはしたのだが、「キッチンは俺専用だから」と断固として断られ、航がこの家でしていることと言えば洗濯ぐらいかもしれない。

 何と言うか至れり尽くせりだよなあと、航は今の自分は最高に恵まれていると思う。

 小さい頃、美味いと感じた料理を作ってもらった覚えはなく、学校の帰りに友人と行ったファーストフード店のハンバーガーが感動するほど美味しいと思った頃をふと思い出す。そんな航に友人たちは皆信じられないとでも言うような台詞を投げかけてきて、航からすればそんな友人たちの方が信じられなかったものだ。

「できたぞー」

 ひょいとキッチンから顔だけを出して、海老原が航を呼びに来る。それにうんと頷くと、海老原はニコリと笑ってキッチンの中に戻っていった。
 点けていたテレビを消し、航はソファから立ち上がる。キッチンからは朝食のいい匂いがしていた。


 ――今、ほんとは笑ってなんかいなかっただろ、海老原。


 そう、航は心の中で呟く。

 もう少しで、航が海老原と一緒に暮らし始めて1ヶ月が経つ。

 最初に感じた印象はやっぱり当たっていたなと、航はキッチンに向かった。

 

 そんな海老原に惹かれて始めている自分に、何となく気付きながら。

 

 




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